
図39 西日本の環溝集落
(大阪府弥生文化博物館『歴史シンポジウム記録集第Ⅰ集 池上曽根遺跡ー弥生ムラその成立と解体』1994/池上曽根遺跡史跡指定20周年記念事業実行委員会『池上曽根遺跡シンポジウム2 弥生環濠都市と巨大神殿ー徹底討論池上曽根遺跡』1996などより武末純一作成)
近畿地方では長期にわたる大規模な環溝集落が多く知られており、近年では大型建物跡とそれを区画する方形区画が相次いで発見されている。大阪府池上曽根(いけがみそね)遺跡では中期後半に巨大な掘立柱建物(一九・二×六・九メートル)が造営され、その正面に直径二メートルの大型の井戸を配し、周辺では石器やタコツボを埋納するという祭祀(さいし)行為がなされていた。また、ここでは先の大型建物跡より一時期古い大型建物跡も想定されていて、両者は互いの長辺・短辺を揃(そろ)えて直角方向に配置される(池上曽根遺跡史跡指定二〇周年記念事業実行委員会『弥生の環濠都市と巨大神殿』一九九六)。兵庫県加茂遺跡の場合、中期後半に遺跡中心付近に位置する大型掘立柱建物跡に近接して、二-三条の溝が方位を揃えて、直角をなして建物跡を囲んでいる(川西市教育委員会『川西市加茂遺跡 第一一七、一二五次発掘調査概要』一九九四)。一方、佐賀県吉野ケ里遺跡の北内郭の場合には内溝はA形という変則的な形状を呈し、望楼を伴う張出部を含めて対称形に掘削されている。しかし、内部の大型建物跡と溝との位置関係に軸線あるいは辺を揃えるといった意識は微塵(みじん)もない。両者は同時に存在したと考えられているが、方位を重視するならば建物跡と北内郭を画する溝は無関係と考えざるを得ない。また、同南内郭も北辺部では矩形を意識するようであるが角は丸く、南半部は大きく歪(ゆが)んでいる。このように厳密な直角配置の意識は北部九州では希薄である。直角配置の思想は古代中国では殷以降、朝鮮半島では楽浪郡設置以降にみられるという。当然、我が国で創造したものではなく大陸との交流の中で導入したものであろうが、どうして北部九州に根付かず、近畿地方で早く定着したのであろうか。
北部九州は丘陵地が複雑に発達し、海や山岳で完結する地域が多い。異なる集団とを画する天然の要害が存在するのである。こうした地域社会にあっては、集団成員は自然環境によって自分の帰属する社会を決定されるといっても過言ではない。集団の紐帯(ちゅうたい)、規制が多少ルーズであっても、村、ひいては国社会も成立しうると考えられる。一方、近畿地方では大阪湾岸は広大な沖積低地が、奈良盆地においても盆地内は西端付近を除いて低平な地形が広がり、しかもここでは水系がすべて大和川に通じる。いわば目隠しのない地形であり、集団間の緊張は北部九州の比ではなかったろう。そこでは村・国ごとの合従連衡、戦闘行為が北部九州以上に頻繁になされたことと思われる。北部九州に少ない大規模な環溝集落が多く存在することも無縁ではない。近畿地方の弥生社会では絶えず外界からの刺激・軋轢(あつれき)を強く受けることから、集団への帰属意識を根付かせ維持するためにも、また首長の権威を高め持続するためにも求心的な装置が必要であった。その一つが銅鐸に象徴される集団祭祀であり、また神殿的建物を中心とする特殊な区画であったのではなかろうか。方形区画内の非日常的な空間に聳(そび)える壮大な掘立柱建物を仰ぎ見る民衆は、そうしたモニュメントを造った首長の権力を畏怖(いふ)し、崇敬したことであろう。また、この閉鎖的な舞台は祭りにもより一層の神秘性と厳粛さを加え、参加者に一体感を植え付ける。方形区画と巨大建物は近畿地方の首長にとって統治に不可欠な要素であったものと思われる。この区画が神殿であるのか、マツリゴト(政治)の場であるのかまだ未解明であるが、古墳時代前期においても銅鏡や各種の石製模造品の大量副葬から祭政一致が言われている。「鬼道を以て能(よ)く衆を惑(まど)わす」空間であったのだろう。こうした大規模な環溝と方形の特殊な区画をもつ関西地方の集落は、北部九州に比して舶載青銅器が少ないものの、やはり国的な社会を呈していたものと思われる。