弥生時代開始当初から、稲作を行う人々は他者と自らを区別していた。長く最古の稲作集落と位置付けられ、学史的にも重要な福岡市板付遺跡では長軸一一〇メートル、短軸八一メートルの卵形に幅一~五メートル、深さ一~二・五メートルの溝、環溝が巡らされていた。ただ、溝の内部に竪穴式住居跡がまったく発見されておらず、調査された貯蔵穴の深さなどから判断して大きく削平を受けて消滅したものと考えられている。それより一時期古い福岡市那珂遺跡は一部が調査されたのみであるが、やはり幅四・二メートル、深さ一・三メートルの外溝と同二メートル、〇・八メートルほどの内溝が幅約五メートルの距離を置いて平行に掘削されていた。また、同じ頃に営まれた粕屋町江辻遺跡では幅一メートル、深さ〇・七メートルの曲線を描く溝が調査され、その内側に朝鮮半島の竪穴住居跡と類似する形態の住居跡や、梁間一間で桁行の長い掘立柱建物跡などが集中して配置されていた。環溝は内外いずれかに残土を積み上げた土塁を伴っていたと推測され、防御の側面が強い。また、現在の我々が生垣やフェンスで敷地を画するように他者から区別し、自らの領域を宣言するという意味も併せ持つ(武末純一「日本の環溝(濠)集落 北部九州の弥生早・前期を中心に」『環濠集落と農耕社会の形成』九州考古学会・嶺南考古学会、一九九八)。環溝集落は全国で五〇〇例以上が発見されており、北部九州でも多く調査されているが、前期から後期に至るといったような長期にわたるもの、環溝の規模が径数百メートルに及ぶ例は少ない。長崎県壱岐原の辻遺跡のように『魏志』に記された各国の都は大規模な環溝集落を形成していたと思われるが、記録に現れないものの豊富な内容を有する佐賀県吉野ケ里遺跡はそれらを彷彿(ほうふつ)とさせる希有(けう)な例である(佐賀県教育委員会「吉野ケ里遺跡」『佐賀県文化財調査報告書』第一三三集、一九九二/七田忠昭「吉野ケ里遺跡の環濠区画」『ムラと地域社会の変貌』第三七回埋蔵文化財研究集会発表要旨資料、一九九五)。
近畿地方では長期にわたる大規模な環溝集落が多く知られており、近年では大型建物跡とそれを区画する方形区画が相次いで発見されている。大阪府池上曽根(いけがみそね)遺跡では中期後半に巨大な掘立柱建物(一九・二×六・九メートル)が造営され、その正面に直径二メートルの大型の井戸を配し、周辺では石器やタコツボを埋納するという祭祀(さいし)行為がなされていた。また、ここでは先の大型建物跡より一時期古い大型建物跡も想定されていて、両者は互いの長辺・短辺を揃(そろ)えて直角方向に配置される(池上曽根遺跡史跡指定二〇周年記念事業実行委員会『弥生の環濠都市と巨大神殿』一九九六)。兵庫県加茂遺跡の場合、中期後半に遺跡中心付近に位置する大型掘立柱建物跡に近接して、二-三条の溝が方位を揃えて、直角をなして建物跡を囲んでいる(川西市教育委員会『川西市加茂遺跡 第一一七、一二五次発掘調査概要』一九九四)。一方、佐賀県吉野ケ里遺跡の北内郭の場合には内溝はA形という変則的な形状を呈し、望楼を伴う張出部を含めて対称形に掘削されている。しかし、内部の大型建物跡と溝との位置関係に軸線あるいは辺を揃えるといった意識は微塵(みじん)もない。両者は同時に存在したと考えられているが、方位を重視するならば建物跡と北内郭を画する溝は無関係と考えざるを得ない。また、同南内郭も北辺部では矩形を意識するようであるが角は丸く、南半部は大きく歪(ゆが)んでいる。このように厳密な直角配置の意識は北部九州では希薄である。直角配置の思想は古代中国では殷以降、朝鮮半島では楽浪郡設置以降にみられるという。当然、我が国で創造したものではなく大陸との交流の中で導入したものであろうが、どうして北部九州に根付かず、近畿地方で早く定着したのであろうか。
北部九州は丘陵地が複雑に発達し、海や山岳で完結する地域が多い。異なる集団とを画する天然の要害が存在するのである。こうした地域社会にあっては、集団成員は自然環境によって自分の帰属する社会を決定されるといっても過言ではない。集団の紐帯(ちゅうたい)、規制が多少ルーズであっても、村、ひいては国社会も成立しうると考えられる。一方、近畿地方では大阪湾岸は広大な沖積低地が、奈良盆地においても盆地内は西端付近を除いて低平な地形が広がり、しかもここでは水系がすべて大和川に通じる。いわば目隠しのない地形であり、集団間の緊張は北部九州の比ではなかったろう。そこでは村・国ごとの合従連衡、戦闘行為が北部九州以上に頻繁になされたことと思われる。北部九州に少ない大規模な環溝集落が多く存在することも無縁ではない。近畿地方の弥生社会では絶えず外界からの刺激・軋轢(あつれき)を強く受けることから、集団への帰属意識を根付かせ維持するためにも、また首長の権威を高め持続するためにも求心的な装置が必要であった。その一つが銅鐸に象徴される集団祭祀であり、また神殿的建物を中心とする特殊な区画であったのではなかろうか。方形区画内の非日常的な空間に聳(そび)える壮大な掘立柱建物を仰ぎ見る民衆は、そうしたモニュメントを造った首長の権力を畏怖(いふ)し、崇敬したことであろう。また、この閉鎖的な舞台は祭りにもより一層の神秘性と厳粛さを加え、参加者に一体感を植え付ける。方形区画と巨大建物は近畿地方の首長にとって統治に不可欠な要素であったものと思われる。この区画が神殿であるのか、マツリゴト(政治)の場であるのかまだ未解明であるが、古墳時代前期においても銅鏡や各種の石製模造品の大量副葬から祭政一致が言われている。「鬼道を以て能(よ)く衆を惑(まど)わす」空間であったのだろう。こうした大規模な環溝と方形の特殊な区画をもつ関西地方の集落は、北部九州に比して舶載青銅器が少ないものの、やはり国的な社会を呈していたものと思われる。