墳丘墓とは古墳のように盛土を伴う墳墓で、古墳と区別するためにこう称している。従来、北部九州では多数の甕棺墓が群集あるいは列状に配列する墓地が主流で、「副葬品の有無多少にかかわらず、多くはほとんど一般の埋葬との間に明瞭で際立った差異を示さないのが普通である」(近藤義郎「集団墓地から弥生墳丘墓へ」『前方後円墳の時代』一九八三)と考えられていたが、近年の大規模発掘によって異なる様相が次第に明らかとなってきた。既(すで)に前期前半には朝倉郡夜須町東小田峯遺跡で一八×一三メートルの長方形に画された墳丘墓が発見されていて、小壺のほかに顕著な副葬品はないが選ばれた一部の人々の墓と考えられている。先の吉武高木遺跡や板付田端遺跡、そして吉野ケ里遺跡などでも「持てるもの」は墳丘を伴う墓地に葬られ、その周辺には無数の「持たざるもの」たちの墓域が広がる。
こうした墳丘墓が北部九州で初めて確認されたのは福岡市吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡で、五世紀の古墳の調査に際してのことであった(福岡市教育委員会「吉武遺跡群Ⅺ」『福岡市文化財調査報告書』第六〇〇集、一九九九)。甕棺墓を納めた墳丘墓の高まりを利用して古墳を造っていたために、比較的容易に確認できたものである。ここでは古墳を築造するに際して地形を改変し、また後世の土取によっても大きく破壊されていたが、一辺二四メートル前後、高さ二~二・五メートルの墳丘が復元されていて、内部から中期後半~後期初頭の二九基の甕棺墓と土壙墓一基などが検出された。この中の六基の甕棺墓・土壙墓などから銅鏡や銅剣・鉄製品・玉類が出土するが、青銅製あるいは鉄製の武器を複数出土したものはなく、やはり分散していた。
吉野ケ里遺跡はマスコミを賑(にぎ)わしたことで記憶に新しい。北墳丘墓は南北四〇メートル、東西三〇メートルほどの長方形を呈し、高さ四・五メートル以上に復元される大規模なものである。内部のすべてが調査されたものではないが、発掘された中期前半~後半にかけての一四基の甕棺の中の八基からそれぞれ銅剣や玉類が出土し、やはり複数の青銅器を持つものは未発見である。ここでも、武器形青銅器は一棺一口の副葬が基本的な在り方で、墳丘墓に埋葬された人々は相互に等質的であったといえる。中期後半頃に朝鮮半島系の武器形青銅器から中国製銅鏡に権威の象徴が変化しても、前代のように一棺一面が一般的な在り方であった。墳丘墓内には副葬品をまったく持たない人物も葬られているが、累々と群集するあるいは延々と列をなして埋葬された甕棺墓群とは明らかな一線を画しており、特定集団-首長一族の墓域と考えられる。
墳丘墓は甕棺墓が盛行した地域に限るものではなく、比較的広範に採用された墓制であった。しかも、墳丘墓と青銅器などの宝器はやはり密接に関連する。
宗像市朝町竹重遺跡では後期古墳の発掘時に古墳の墳丘中にある弥生時代の墳丘を確認した。弥生時代の墳丘墓の高まりを再利用したもので、福岡市吉武樋渡遺跡と同様な状態であった。ただ、ここでは埋葬部に甕棺墓を使用せず、土壙墓あるいは木棺墓である。詳細な報告はまだなされていないが、一〇〇基を超える墓からなり、その中の二八号土壙墓から細型銅戈一口と銅矛切先を出土する。この二八号土壙墓それ自体が墳丘墓中にあったか否かは定かではない(安部裕久「宗像地域の墓制」『弥生時代の墓制を考える』一九九三)。
嘉穂町鎌田原(かまたばる)遺跡は木棺墓八基、土壙墓一基、甕棺墓一一基からなり、一部で周溝を確認している。遺構の埋没状況をも勘案して、隅丸長方形あるいは隅丸方形で一部が突出するという平面形が想定されていて、前者の場合の規模は三一×二四メートル、後者では一辺二四メートルとされる。この墓群の盟主的な遺構は木棺(木槨)墓で銅戈一口が出土した。また、ほかにも甕棺墓から銅戈二口、木棺墓から銅剣切先、勾玉などの玉類、石鏃などが出土したが、墓群の主体は木棺墓であるという(嘉穂町教育委員会「原田・鎌田原遺跡」『嘉穂町文化財調査報告書』一八、一九九七)。
新吉富村大塚本(おおつかもと)遺跡は豊前バイパス建設に伴い調査された遺跡で、現状は水田であった(図41)。調査の結果、開墾によって大きく破壊されているが、最大幅四メートル、深さ〇・五メートルほどの溝が一四×一六メートルの方形を画していた。埋葬部はわずかに縁辺部から箱式石棺墓一基、石蓋土壙墓二基、土壙墓一基が検出されたのみであるが、周溝から弥生時代中期前半~後半を中心とする土器が分散して出土している(福岡県教育委員会「大塚本遺跡」『一般国道一〇号豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告』第九集、一九九八)。ここでは青銅器の存在が確認されていないが、後述するように京築地域でもっとも国的な在り方を示す地域である。
このように武器形青銅器や銅鏡などの外来系の宝器、威信財は甕棺墓・墳丘墓と密接な関係にある。宝器を入手・製作し、配布した主体は後に伊都国、奴国を形成した集団であり、彼らの勢力の伸長に伴ってこれらの墓制も拡大した。それは北部九州社会が弥生時代後期前半までに「倭国」を形成する過程と一致したはずである。「百余国」には中国製銅鏡を初期に入手し得た集団だけでなく、その外縁に広がる甕棺墓制や墳丘墓を築いた集団も当然含まれていると思われる。
一方で、畿内地方に至る西日本の広い地域でも同じような社会が既に成立していたことは大規模な環溝集落の存在や墳墓の状況から窺える。銅鏡や鉄製品はまださほど普及していなかったが、奈良県唐子・鍵(からこ・かぎ)遺跡の異国情緒漂う重層建物を描いた絵画や厳格な方形区画に示されるように大陸文化を確実に受け入れている。何より大量の銅鐸を製造しうる原材料を入手していた。これらの地域も「百余国」の一員であったものと思われる。「百」の数字に拘泥することはなかろう。