紀元五七年、「漢倭奴国王」の金印が後漢光武帝から北部九州の「奴国」の首長に下賜された。考古学では弥生時代後期前半と位置づけられる。その頃の代表的な遺跡を見てみよう。なお、「奴国」以外の国名は『魏志』に初めて登場するものであるが、「奴国」と同様にこの段階で使用された可能性があるのでそのまま使用する。
末盧国(まつろこく)の佐賀県唐津市桜馬場遺跡では昭和一九年(一九四四)に防空壕を掘削する際に合口甕棺が出土し、中から径二三・二センチメートル、一五・四センチメートルの二面の銅鏡、巴形銅器三点、有鉤銅釧二六点、鉄刀片一点、ガラス玉一点が出土した(杉原荘介・原口正三「佐賀県桜馬場遺跡」『日本農耕文化の生成』一九六一)。銅鏡の枚数は決して多くはないが、大型鏡を含み、多くの国産青銅器を副葬したこの墓地の被葬者は西暦一世紀前半の末盧国を治めた王であったと考えられている。ただ、甕棺は絵図が残るだけで実物が現存しないこともあって、近年年代的位置づけに再評価の動きがある(高橋徹「桜馬場遺跡および井原鑓溝遺跡の研究――国産青銅器、出土中国鏡の型式学検討をふまえて」『古文化談叢』第三二集、一九九四)。これ以前の有力な墳墓は宇木汲田遺跡を始め、前漢鏡一面を出土した柏崎田島遺跡などいずれも松浦川右岸に位置していた。桜馬場遺跡は左岸に出現し、地域内で首長権が移動した可能性がいわれている。しかし、末盧国ではこれに続く王の存在はまだ知られておらず、都とすべき集落遺跡も不明である。
伊都国(いとこく)では比較的様子が判明している。前一世紀中頃に埋葬された三雲南小路遺跡を継ぐ王墓が近接して発見された井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡である。江戸時代天明年間(一七八一~八八)に農民が作業中に掘り出したもので、やはり青柳種信が記録を残している。それによれば朱が流れ出した一つの壺の中から古鏡数十、鎧(よろい)の板状のもの、刀剣の類が出土したといい、彼は銅鏡などの拓本を残している。銅鏡は鈕の数から少なくとも二一面が副葬されていたようで、文様などから前一世紀末~一世紀初頭頃のものと考えられている。銅鏡以外には巴(ともえ)形銅器三点が示されるが、ほかの遺物は不明のままである。先の副葬品の種類や組合せは桜馬場遺跡に似て同時期と考えられているが、銅鏡の枚数からみてその格差は大きい。末盧国と伊都国の勢威の差を如実に表している。
昭和四〇年(一九六五)一月、三雲南小路遺跡の北西一・四キロメートルの丘陵上で耕耘機(こううんき)を使用して農作業している際に銅鏡などが出土し、原田大六氏や県教育委員会による詳細な調査がなされた。やがて平原(ひらばる)一号墓と名付けられた墳墓は九×一三メートルの範囲を幅二メートルほどの溝が長方形に巡る形態で、内部に割竹形木棺と呼ばれる形式の埋葬部を一基納めていた。棺内からは大量のガラス製・琥珀(こはく)製・瑪瑙(めのう)製の各種玉類(勾玉・管玉など)が出土し、棺上には素環頭太刀一口が置かれていた。また、墓壙と呼ばれる棺の周囲から三九面(後に四〇面とされる)の銅鏡が砕片化して出土したことで大いに注目された。岡村秀典氏によればこれらは三四面が前一世紀末から一世紀後半に製作された中国鏡で、径四六センチメートルを超える大型内行花文鏡などの五面が国産であるとし、一世紀後半から二世紀初頭に埋葬されたと考えている。傍証として、一回り小規模で方位をほぼ揃え、近接して造営された方形周溝をもつ五号墓の存在を挙げる。五号墓は周溝がある程度埋もれた後に甕棺墓が掘り込まれていて、甕棺の年代は後期前半である。この埋葬部は大きく破壊されるが、かつて前漢鏡の鈕が二点採集されており、同様の形態の一号墓をそれに後続する墳墓と考えた(岡村秀典「伊都」の首長とその社会」『三角縁神獣鏡の時代』一九九九)。これに対し、発掘調査にも参加した柳田康雄氏は岡村氏が後漢鏡とした方格規矩四神鏡について、文様や銘文、着色や技術的稚拙さからすべてを国産品とみて、真に舶載されたのは四〇面の中の二面に過ぎないとする。そして、製作者は倭国王帥升等が請見を願った一〇七年以降、伊都国に対して派遣された鏡工人と考えている。また、遺跡の年代も各種の副葬品を総合的に評価して弥生時代終末、二〇〇年前後とするなど、岡村氏と大きく隔たっている(柳田康雄『伊都国を掘る』、二〇〇〇/前原市教育委員会「平原遺跡」『前原市文化財調査報告書』第七〇集、二〇〇〇)。銅鏡の評価はともかくとして九州の研究者の多くが弥生終末の時期とする。ここで注目したいのは周溝が円形を呈するか、方形を呈するかという墳墓形態の問題、そして、そして大柱の存在である。方形を呈する五号墓は後期初頭~前半で皆が一致する。また、円形を呈する三号墓は周溝中から良好な状態の土器が出土していてそれらは明らかに古墳時代の土器である。弥生終末~古墳時代初めの土器が伴い、一号墓の時期決定の根拠ともなっている二号墓は、円形とも方形ともとれるような微妙な形態となっているが、どちらかといえば円形に近い。また、大柱(おおばしら)と呼ばれる遺構は柳田氏が太陽信仰と関連する重要なものと位置付けるもので、一号墓の場合、埋葬部のほぼ中軸線上に位置し、直径六五センチメートル、高さ一三メートルの規模が推定されている。五号墓でもやはり埋葬部の中軸線上にあって、径四〇センチメートル強の木柱二基が想定されている。両墓ともに埋葬部の東側にあって、柱穴の南側にスロープや階段状の掘り込みを伴うという共通性がある。このようにみると、一号墓は五号墓とより共通する要素が窺えると考えるが如何(いかが)であろうか(図42)。平原一号墓の年代はともかく、伊都国では三雲南小路(-平原五号墓)-井原鑓溝-平原一号墓という王の墳墓が知られ、これらの間隙(かんげき)を埋めるあるいは前後する墳墓は今後の課題である。他方、都と目される三雲遺跡では継続的に調査がなされるが、まだ様相は不明と言わざるを得ない。楽浪系土器が集中する地区などがあり、今後が大いに期待できる。
「漢倭奴国王」の金印を下賜された奴国は弥生前期末~中期初めの板付田端遺跡、中期後半の須玖岡本遺跡D地点の傑出した墳墓が確認されたほかは王墓と呼ぶべき墳墓が知られていない。しかし、奴国の都といわれる須玖岡本遺跡周辺では中期中葉以前から青銅器・鉄器生産が開始され、後期にはガラス生産も加わる。初期の青銅器鋳型の出土量は鳥栖市や佐賀平野が優勢であったが、やがて中期後半頃には春日市域周辺に主導権が移り、後期に至ると青銅器生産の最大の拠点となった。鋳型には剣・矛・戈・鏃・鐸・鏡・釧などがあり、北部九州出土の鋳型総数二三〇点前後の中の一六〇点ほどが奴国を形成する福岡平野に集中するという。武器形青銅器の中で最も重要視された矛の生産は末盧・伊都国でも鋳型が出土するが量的には奴国が圧倒する。ここで生産された製品は北部九州はもとより、愛媛・高知県といった四国西南部でも多く出土しており、玄界灘沿岸地域の影響力の一端を見ることができる。また、長崎県壱岐島では四口が出土するのに対し、対馬島には一〇〇口以上の銅矛が集中している。これには自らの政治的領土の境界に埋めて外敵などの進入を阻(はば)む、あるいは航海の安全を祈願するといった意味が想定されている。いずれにしても主体は銅矛を鋳造し、祭祀を主導した国、奴国とその周辺に違いない。
須玖岡本遺跡周辺は都市化が進んでいることが災いして、都の実体を把握するのが困難であるが、そうした条件下でも都市的景観を彷彿(ほうふつ)とさせる大規模な生産工房の様相が明らかとなりつつある。しかし、先にも記したように、一〇七年に後漢に朝貢した「倭国王帥升」は伊都国王と目されていて、そこでは累代の王墓も発見されている。弥生後期には政治権力の中枢は伊都国にあって、奴国はもっぱら青銅器・ガラス製品といった宝器を生産することで連合体を支えたのではなかろうか。邪馬台国の時代に「一大率」が伊都国に置かれたことも、北部九州の覇者であった伊都国を直接押さえ込んだと解釈することで理解できよう。