京都平野の遺跡

349 ~ 352 / 761ページ
 京築地域でも他地域同様に前期後半~中期初頭には低丘陵の至る所に集落が拡散していた。調査例は集落が多く、社会構造をより鋭敏に反映する墓地に乏しいが一端を垣間(かいま)見てみよう。
 行橋市下稗田遺跡は京都平野を代表する弥生時代遺跡で、前期中葉ないし後半から開始し、中期前葉には衰退を始めるとされるが、集落は終末まで連綿と継続する(行橋市教育委員会「下稗田遺跡」『行橋市文化財調査報告書』第一七集、一九八五)。しかし、ここでは一貫して環溝をもたず、掘立柱建物跡も皆無である。貯蔵穴は各自が管理するかのように住居跡周辺に分散し、一括管理といった様子は窺えない。I地区には長さ一五〇メートルにわたって比較的規則的に列状に配された遺跡最大の墓域があり、石棺墓六基・石蓋土壙墓一六基・土壙墓八一基・小児用甕棺墓四一基と祭祀土坑からなる前期後葉~中期後葉に至る墓群が調査された。これらの中で、七九・八〇・八一号土壙墓が比較的近接して縦一列に並び、かつ三方を不連続な溝で囲むとともに溝を欠く部分も他の墓と距離を置くなど一定範囲を占有し、特殊な扱いを受けたことを思わせる。しかし、埋葬部が特に大きいなどの区別はなく、また副葬品もない。K地区は調査面積が狭いが、土壙墓二八基・甕棺墓二三基と祭祀土坑が調査された。土壙墓の主軸が尾根線と斜行し、かつ尾根線上に祭祀土坑があることから調査範囲でほぼ完結する墓地と思われる。ここでは中期中葉~後葉に属する三基以上の土壙墓から硬玉製勾玉三点、碧玉製管玉六三点が出土した。硬玉・碧玉は北陸・山陰地方で産出し、交流を経て初めて入手できる稀少品である。I地区の集団墓から独立した墓域を有し、玉類だけではあるが副葬品をもっているK地区の集団がより優位にあり、指導的地位にある特定集団ということができるのであろう。しかし、皆が竪穴式住居に住み、貯蔵穴を自主的に管理する様子は首長権の伸長が未熟であったか、あるいは富の集積が貫徹されなかったことを窺わせる。
 竹並遺跡は大規模な横穴墓群として著名であるが、弥生時代の集落も調査された。A地区とした遺跡北端のY字状をなす北側尾根線上で集落跡が、それに連続する南側尾根線上で墓地が検出されたが、墓地は保存区域にあるために調査は一部にとどまる。検出された遺構は北西側尾根上で住居跡九軒、貯蔵穴など六〇基、北東側尾根上では住居跡四軒、貯蔵穴など六九基、両尾根上の北端近くで掘立柱建物跡各一棟、そして両尾根を繋(つな)ぐ位置で住居跡二軒、貯蔵穴など七基である。両尾根とも北端近くに比較的大型の住居跡と掘立柱建物が位置し、指導者の住居跡かとも推測されている。また、両尾根の中間に位置する住居跡も大型で、かつここには貯蔵穴が少ないことなどから両尾根の集落の共有空間ではなかったかと見なされている。ただ、住居跡は同時に存在し得ないほど非常に近接するものがあって、同時に存在した遺構は住居跡四軒程度と思われる。単純に計算してそれらに一五基程度の貯蔵穴が伴うこととなる。比較的大型の住居跡と掘立柱建物跡が指導者的人物の居住域であったとしても、四軒程度からなる最小単位の集団の指導者であり、階層分化の証左とは言い難い。いずれにしても小規模ながら比較的完結した集落で、当時の生活単位を考える上で示唆的なものであった(竹並遺跡調査会『竹並遺跡』一九七九)。
 前田山遺跡では弥生前期から後期にいたる住居跡および中期から古墳時代初めに至る墓地を調査している。集落の詳細は不明だが、遺構配置略図を見る限りの貯蔵穴は分散する各住居跡に添って配置するようである。墓地は集落とは谷を挟んだ東の尾根線上に位置し、中期の遺構はやはり列状に分布する。土壙墓一二〇基ほど、小児用甕棺墓四〇基ほどと祭祀土坑からなる。墓群は列の途切れる部分があって、全体に五ないし六つのグループに分けられる可能性がある。ここでは二基の土壙墓から管玉が出土するが、この土壙墓も位置的にも規模的にも特殊性を見出し難いもので、優位にあると判断できるようなグループは認められない(行橋市教育委員会「前田山遺跡」『行橋市文化財調査報告書』第一九集、一九八七)。
 一方、確実な生活遺構が確認された弥生遺跡としては京築地域で最も古い苅田町葛川(くずがわ)遺跡は様子が異なる(苅田町教育委員会「葛川遺跡」『苅田町文化財調査報告書』第三集、一九八四)。遺跡は小波瀬川左岸の低丘陵上に位置し、長軸五四メートル、短軸四〇メートルの範囲を楕円形というよりは卵形に近い形状で巡る幅二・五メートル前後、深さ二メートル弱の溝が確認された。内外で三五基の貯蔵穴が発見されたが、溝の外あるいは溝の中に掘り込まれたものもあって、環溝の内部に掘削された貯蔵穴は多くても二七基である。ここでは形状から明らかに時期の異なる住居跡が二基検出されるが、その大きさを比較すれば、貯蔵穴群と同時期に複数の住居跡が環溝内部にあったと考えることは困難で、この環溝および貯蔵穴群を営んだ人々は別の地点に住居を構え、共同して経営したとする方が妥当な解釈と考えられる。その場合、貯蔵穴群は配列状況から四つのグループに分かれると想定され、この遺跡の経営母体が推測されている。貯蔵穴だけからなる同様な環溝は福岡市板付遺跡や宗像市光岡長尾遺跡でも見られる。板付遺跡ではやはり卵形の環溝の北端に環溝内部を画する直線的な弦状溝と呼ばれる溝があり、その北側、環溝内に貯蔵穴が集中していた。また、光岡長尾遺跡では直径四二~四六メートルのほぼ円形の範囲を囲む幅四メートル、深さ三メートルの環溝があり、内部に五〇基の貯蔵穴だけが掘削されていた。このように貯蔵穴だけが集中する場合には集団で管理されていたと考えられている(武末純一「倉庫の管理主体――北部九州の弥生拠点集落例から」『小島隆人先生喜寿記念論集 古文化論叢』一九九一)。つまり下稗田遺跡のように個別管理が優先される集団ではなく、集団のために私権を制限しうる、より強力な指導者がいた可能性がある。不確かな例であるが、豊津町神手(こうで)遺跡では一五基ほどの貯蔵穴を囲む環溝が推定されている(福岡県教育委員会「神手遺跡」『椎田バイパス関係埋蔵文化財調査報告』六、一九九二)。また、明瞭な区画溝はないが、行橋市下崎ヒガンデ遺跡では調査区の北東部に貯蔵穴が集中する区域があり、同鬼熊遺跡でも南半に貯蔵穴が密集していた(行橋市教育委員会「鬼熊遺跡」『行橋市文化財調査報告書』第二七集、一九九九)。葛川遺跡は前期中頃、神手遺跡・鬼熊遺跡は前期後半、下崎ヒガンデ遺跡は中期中頃とされる。このように貯蔵穴の管理形態には二者があり、それらは一系的に変遷するものではなく同時期に併存していて、指導者の権力の強弱を反映している可能性がある。
 以上、京都平野のいくつかの遺跡をみてきたが、甕棺墓盛行地帯で青銅器の副葬などから首長権が確立したといわれる弥生時代前期末から中期初めにかけての京都平野ではまだその明瞭な痕跡は認められない。中期・後期の遺跡も調査例は少なくないが、核となるような長期に存続する拠点集落が未発見で、国の成立や王の誕生といった視点ではまだ資料不足の感が否めない。地域として重層構造が窺えるのが築上郡新吉富村と大平村の山国川流域である。