図43 牛頭天王遺跡の周辺(国土地理院発行1/25000地形図改変)
1:牛頭天王遺跡,2:下唐原遺跡群(郷ケ原遺跡),3:安雲ハタガタ遺跡,4:垂水高木遺跡,5:上桑野遺跡,6:桑野遺跡,7:下唐原伊柳遺跡,8:下唐原宮園遺跡,9:大塚本遺跡,10:穴ケ葉山遺跡,11:甚吾久保遺跡,12:金居塚遺跡,13:能満寺3号墳,14:西方古墳
中期中頃には牛頭天王遺跡に環溝が掘削される。検出した溝は幅〇・八メートル、深さ〇・四メートルの規模で、六三メートルにわたって直線的に延びる状況を確認したが、その中に幅四メートルの掘り残し部分(陸橋)を確認したことでこれが環溝の痕跡であると確信した。通常の環溝が深さ二メートル前後の規模で残存していることを踏まえれば、この遺跡付近は少なくとも一・五メートル前後の削平がなされていることが推測され、住居跡などの遺構はほとんど不明であった。ただ、環溝は中桑野遺跡として調査された部分を取り込むと予想され、地形的にみて南三〇〇メートルの付近を東西に蛇行して流れる野路川を越えることはないが、東西・南北ともに二〇〇~三〇〇メートルの範囲を囲んでいたものと推測される。本格的な環溝集落である(図44)。
ここでは環溝掘削に先だって大形の掘立柱建物が存在していた。建物跡と環溝とに互いを意識したような配置が見られず、出土土器から判断して建物群が先行したと考えている。一×一間の建物跡を六棟、一×二間の建物跡を二棟検出したが、特に規模の大きな三棟の建物跡を紹介する。一号建物跡は一×二間の六本の柱で構成され、柱と柱の距離はそれぞれ五、九・二メートル、単純にかけると四六平方メートルで約二八畳分の広さとなる。柱穴は平面長方形で、大きいもので長軸二メートル、短軸一・二メートルの規模を測り、一方の小口にテラスを有する。近年各地で発見される大型建物跡でも、巨大な柱を立て据えるために階段状の柱穴をもつものが一般的となりつつあるが、ここでは削平がひどいためにその一部が残存していたのだろう。また、西短辺では建物跡の内側に二本の小柱穴が並んで発見されたが、これは梯子(はしご)状の施設の痕跡と考えている。二号建物跡は一号建物跡と重複するため、同時存在はあり得ないが、その前後関係は確認できていない(図45)。一×一間、芯々で五・二×五・七メートルの規模となる。床面積は約三〇平方メートル。柱穴は一~一・二メートルの歪んだ長方形となる。四号建物跡は一×二間、三・五×七・四メートルの規模をもち、床面積は約二六平方メートルとなる。この柱穴も平面が方形に近い歪んだ形で、一辺長一・一~一九メートルの規模となるが、ここでは径〇・三~〇・六メートルの柱の痕跡を認めている。また、一号建物跡同様に東辺に近い部分で梯子穴と思われる小柱穴を確認した。これらの建物跡で注目すべきは柱穴が長方形を意識しており、またその配置が正確に直角をなすと思われる点である。弥生時代はもちろん、中世においても往々にして隅が直角とならない建物跡を見ることがあるが、その配置の確かさは建築技術の高さ、ひいては厳密な設計でなければ建設が困難な建造物が存在したことが推測される。このような建物跡は京築地区ではもちろん皆無であり、時期が大きく異なるが吉野ケ里遺跡で望楼とされる建物跡に比肩するものである。これらの建物跡の存在は大規模であったと想定される環溝とともにこの遺跡が当地で最も栄えた、拠点的な集落であったことを教えてくれる。
この牛頭天王遺跡に対応する墓域が、南一キロメートルに位置する先の大塚本遺跡である。大塚本遺跡も開墾が進んで全容は不明である。しかし、甕棺墓盛行地域で王族といわれることもある特定の集団を葬った墓制である墳丘墓という形態を採用し、その東には列状に配した土壙墓群-一般成員の墓域も見られるなど京築地域では非常に特異な在り方をみせている。ここでは下稗田遺跡でわずかに墓域の違いと玉類の副葬から推測した階層差が如実に表現されている。その階層差が集落内でどのように顕現していたかはまだ不明であるが、甕棺墓盛行地域と同様に王とその一族の析出といった社会構造がここでも中期前半には確固としたものになっていた。直接に武器形青銅器や銅鏡の出土は伝えられていないが、銅剣片を出土した金居塚(かないづか)遺跡(後述)は南二キロメートルに位置し、同じ集団のテリトリーと考えてよい。また、川原田塔田(かわらだとうだ)遺跡(同)は西四キロメートルに位置するが、間を現市村界となる佐井川が隔てており、この集団との関係は微妙である。後に牛頭天王遺跡は郷ケ原(ごうがばる)遺跡へ移動するが、その頃に佐井川左岸に接して小石原泉遺跡という大集落が出現するからである。
この牛頭天王遺跡の周辺にはその衛星的集落も発見されている。野路川を挟んだ対岸の下唐原伊柳(しもとうばるいやなぎ)遺跡、その西の低丘陵上の桑野(かの)遺跡(福岡県教育委員会「桑野遺跡上の熊遺跡 小松原遺跡」『一般国道一〇号豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告』第六集、一九九七)、友枝川左岸の垂水高木遺跡(新吉富村教育委員会「牛頭天王遺跡 垂水高木遺跡」『新吉富村文化財調査報告書』第八集、一九九四)や友枝川を挟んで西方二キロメートルに位置する安雲(あくも)ハタガタ遺跡(新吉富村教育委員会「垂水廃寺Ⅱ 宇野地区遺跡群Ⅰ」『新吉富村文化財調査報告書』第一二集、一九九九)などは中期初頭~前半に始まる遺跡で分村であろうと考えている。伊柳遺跡では詳細が不明であるが環溝らしき大溝や鍛冶工房かと思われる住居跡も発見されている。桑野遺跡は幅四〇メートル、長さ一六〇メートルの範囲を調査した。ここも開墾のために遺構の状態は良好ではないが、それでも円形住居跡七軒、掘立柱建物跡一二棟などが復元されている。この遺跡で注目すべきは平面円形、断面フラスコ状となるいわゆる袋状貯蔵穴が皆無なこと、西端に小規模ながら土器が多く投げ込まれた溝状遺構が存在することである。この時期、下稗田遺跡など行橋平野の遺跡ではまだ貯蔵穴が一般的であるのに対し、ここでは浅い長方形土坑に屋根を付した貯蔵穴様の土坑が二基あるものの袋状貯蔵穴はなく、その役割は一一棟が確認された一×一間の掘立柱建物跡(高床式倉庫)が担っていていたようである。特にその中の五棟(二棟は建て替えがあるため、同時併存は多くて三棟)は集落東端近くにあって、建物方位を意識して配列している。また、西端部で遺跡を画すると考えられる二一八号溝状遺構は幅一メートル、深さ〇・四メートルと小規模なものであるが、中期前半から後半に至る土器が多く出土している。集落を画する溝に多くの土器を廃棄する行為も行橋平野では例が少ない。安雲ハタガタ遺跡は小範囲の調査であったが、一×一間の掘立柱建物跡三棟、一×二間の建物跡二棟が集中していた。ただ、ここでは柱穴に伴う良好な土器が出土しておらず、弥生時代に属するであろうという推測の域を出ていない。
牛頭天王遺跡は後期をまたずに廃絶するようである。そして中核的集落は南二キロメートルの大平村下唐原地区に移ると思われる。
郷ケ原遺跡は山国川左岸の低地に位置する集落跡で、平成元年(一九八九)に豊前バイパス建設に先立って発掘調査がなされた(福岡県教育委員会「郷ケ原遺跡」『一般国道一〇号豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告』第一〇集、一九九八)。ここでは最大幅四・七メートル、深さ一・四メートルの断面V字溝が五〇メートルにわたって検出され、内外から弥生時代後期~古墳時代前期に至る竪穴式住居跡六七軒などを検出した。溝の土層観察からV字溝以前に壁の立ち上がりの緩やかな溝が既に掘削されていて、出土土器から後期前半に初めて環溝が掘削され、大量の土器や石とともに埋められたのは弥生時代終末頃であったと推測している。その後、郷ケ原遺跡の周辺で圃場整備事業が着手され、思わぬ展開をみせている。水路や道路に伴う部分的な調査の中で、郷ケ原遺跡で検出された環溝は東西方向に五〇〇メートル、南北方向に三〇〇メートルの規模であったと推測されるに至った。さらに、その外側にも二重の環溝が推測されているが、西側の段丘下は山国川の旧流路跡と考えられる地形で、東側も調査地を限る道路を境に山国川の氾濫原となっている。したがって、東西長は最大に見て七〇〇メートルほどとなろうか。南北長は図に示した復元案で五〇〇メートルほどとなる(図46)。環溝の内外で弥生後期から古墳前期に至る住居跡が既に二〇〇軒以上確認されており、ほかにも小児を中心とした墓地や水田跡などが検出されているが、現在のところ奴国周辺で見られるような青銅器の鋳型や鍛冶の痕跡といったものは未発見である。ただ、遺跡北端の瀬戸口遺跡の環溝から二世紀中頃に製作された中国製の内行花文鏡片が出土している。遺跡は現在も調査が進行中であり、調査あるいは出土遺物の整理過程で今後も新たな展開が予想される。
この郷ケ原遺跡で生活した人々の墓地と思われる弥生終末期頃の遺跡がいくつか知られている。遺跡のすぐ西側の比高二〇メートルの河岸段丘上の金居塚遺跡(福岡県教育委員会「金居塚遺跡Ⅱ」『一般国道一〇号豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告』第七集、一九九七)、その五〇〇メートル西の甚吾久保(じんごくぼ)遺跡、さらに西五〇〇メートル弱の穴ケ葉山遺跡(大平村教育委員会「穴ケ葉山遺跡」『大平村文化財調査報告書』第八集、一九九三)などが調査され、未調査の墓地もいくつか露出している。金居塚遺跡では、五基の石蓋土壙墓からなる一群と、七基の土壙墓・一一基の石蓋土壙墓が一辺一五メートルほどの区画内に配置された一群とがある。特に後者は副葬品としては刀子一点、鉄鏃三点、鉄鉇一点と見るべきものはないが、粘土や赤色顔料を多用しており何より墓域が独立している点で有力者一族の墳墓であると考えられ、周溝や盛土を確認できなかったが、墳丘墓であった可能性がある。多くの石蓋土壙墓が密集する穴ケ葉山遺跡とは明らかに一線を画している。
このように、新吉富村と大平村の山国川流域では前期~中期には牛頭天王遺跡を核として周辺に分村を配し、甕棺墓社会の墓制といえる墳丘墓を採用した。山国川流域に初期の武器形青銅器が存在したことも判ってきた。後期には下唐原地区に拠点を移して環溝集落を営み、盛期には三重の環溝を掘削したようである。集落の内容にはまだ不明な点が多いが、対をなすと考えられる墓地の様子も比較的明らかになっている。それらの動向を見るとき、豊富な青銅器を欠くとはいえ基本的には甕棺墓盛行地域と同様の足跡をたどることができ、この地域も『漢書』にいう「百余国」に列していたのかも知れない。この地域には初期の前方後円墳も存在しており、弥生後期から古墳時代に至る激動の社会を研究する上で貴重な材料を提供することであろう。
今一つ、豊前地域で拠点的集落が継続して知られるのは宇佐市域である。駅館川右岸の段丘上に前期末頃に属する南北二七〇メートル、東西一五〇メートルの範囲を囲む一号環溝(環濠)と同じく一五〇メートル、一一〇メートル余を囲む二号環溝からなる集落が隣接して現れ、溝の内外で住居跡や貯蔵穴、墓域が発見されている(川部遺跡群)。ただ、この環溝は西端が駅館川の段丘崖で途切れると思われ、完周するものではない。また、周辺では広範に各時期の墓域も調査されていて、集落全体が窺える遺跡群である。これらは中期まで続き、やがて南に近接して中期後半~後期初頭の環溝集落である東上田遺跡が継続し、後期後半には約二キロメートル南の左岸の低地に別府(びゅう)遺跡がやはり環溝を伴って出現するなど、弥生時代のほぼ全期間を通じて駅館川の両岸に拠点的な環溝集落が続く。古墳時代になると九州で最古の前方後円墳の一つといわれる赤塚古墳が先の川部遺跡群の北に近接して築造され、その後、累代の首長墓が同じく右岸に築造される。赤塚古墳と同じ頃の豪族居館と目される小部遺跡が、かつての拠点地域であった駅館川から離れて位置することは集落あるいは集団の勢威の盛衰という点で暗示的である(宇佐市教育委員会『宇佐地区遺跡群発掘調査概報』一九九二)。