弥生時代の開始とともに流入した朝鮮半島・中国大陸で作られた品々は、北部九州各地で階層社会の成立を測る指標とされ、宝器として国・王の成立にも大きく寄与した。しかし、交易拠点は当然に玄界灘沿岸であり、豊前地方は出土例に乏しいがその概要を見てみよう。
武器形青銅器・鉇
豊前市川原田塔田遺跡は圃場整備事業に伴って調査された弥生時代の墓地で、この中のSK-01から残存長一〇・五センチメートル、最大幅三・八センチメートルの銅戈切先が出土した。出土状態から見て埋葬者の体内に残されたものと考えられている。銅戈は背が厚くかつ丸い。また、先端で交わる樋から切先までの長さが短く、身も厚いなど古式の形態を示す。ほかの土壙墓でも石製武器の切先や石鏃が出土していて戦闘の犠牲者が含まれているのであろう。この墓地は中期初頭頃に形成されたものと考えられている。近接する鬼木四反田遺跡は川原田塔田遺跡と対をなす集落と考えられており、中期初め頃の祭祀土坑から有茎銅鏃が、貯蔵穴から希少な銅鉇も出土している。この地区周辺ではほかにも銅矛・銅戈片が出土していて、京築で最も青銅器が集中する特異な遺跡群である。
大平村金居塚遺跡では銅剣片が出土した。遺跡は国道一〇号線豊前バイパス建設に伴って調査されたもので、山国川左岸、眼下との比高差二五メートルの段丘肩に位置する。主要な遺構は縄文時代の落とし穴と考えられる土坑、弥生時代の石蓋土壙墓、古墳・横穴墓などであるが、横穴墓が掘り込まれた崖面での表土掘削中に残存長二・七センチメートル、同幅二・七センチメートルの細形銅剣の一部を採集した(福岡県教育委員会「金居塚遺跡」Ⅱ『一般国道一〇号豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告』七、一九九七)。時期や性格を特定できないが、先の豊前市出土例、および山国川対岸の三光村佐知(さち)遺跡出土の細形銅剣(大分県教育委員会「佐知遺跡」『大分県文化財調査報告』八一、一九八九)などとともに、少なくとも山国川周辺部には古式武器形青銅器が搬入されていた。
銅鏡
京築地域から出土した弥生時代銅鏡を表4(三七一頁)に示した。豊前市鬼木四反田遺跡住居跡から出土した銅鏡は通例と銅質が異なり、文様が不鮮明であるが朝鮮半島で発見された銅鏡に似ていて舶載されたものであろうと考えられる。前漢鏡としては所在不明の不確かな一例があるが、そのほかは後漢以降および国内で作られた鏡である。また、出土遺構の年代もほとんどが弥生時代後期でも後半に属すると考えられる。大陸から持ち込まれた舶載鏡の中、小長川(こながわ)遺跡(勝山町教育委員会「小長川遺跡」『勝山町文化財調査報告書』第六集、一九九三)・川ノ上遺跡Ⅳ-一九号墓・四号墳丘墓四号棺出土例(福岡県教育委員会「徳永川ノ上遺跡Ⅲ」『一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告』第九集、一九九七)を除いていずれも小片あるいは一部を欠損した小型鏡で、田川郡香春町宮原遺跡のように大型の完形鏡が存在しないことは重要であろう。当地には大型鏡を入手しうる有力な勢力が育っていなかったと言える。
鉄製品
弥生時代の大規模な集落である下稗田遺跡では弥生時代に属する一九点の鉄製品が出土しているが、前期末頃のF六七号貯蔵穴出土鉄斧は柄を装着する袋部が断面長方形となり、その形状から大陸より将来された鋳造品と考えられている。前期末~中期前半のD四〇六号貯蔵穴出土出土鉄斧は先の例に比べて大型で、袋部は断面長方形となり、その外周に二条の突帯を巡らせる中国製の鋳造製品である。また、弥生後期とされるやはり大陸製鋳造鉄斧も出土している。そのほかは再加工品と考えられるものも含めて、製品は一点の刀子、一点の鑿も含めてすべて木材伐採・加工用の斧である。なお、鉄製品そのものは出土していないものの、集落が開始された当時に使用された木材に鋭利な加工痕が観察されていて、ここでも当初から鉄製品の使用が想定されている(行橋市教育委員会「下稗田遺跡」『行橋市文化財調査報告書』第一七集、一九八五)。
大平村穴ケ葉山遺跡は弥生終末期と考えられる大規模な墓地で、八三基の石蓋土壙墓が密集した状態で発掘された。その中の三六基から三九点の鉄製品を出土し、その頻度は非常に高い。内訳は剣一口、素環頭と呼ばれ柄尻が丸い中国製と考えられている小刀・刀子三点、刀子一四点、鉄鏃四点、鉇一六点、土掘り具の鍬先一点である。古代中国で文具の一種といわれる素環頭を有するものはもちろん将来されたものと思われるが、それ以外の剣も含め、多くの鉄製品を小児用の墓にまで供えており、この集団が鉄の入手ルートをしっかりと確保していた証であろう(大平村教育委員会「穴ケ葉山遺跡」『大平村文化財調査報告書』第八集、一九九三)。
中国大陸に由来する素環頭をもつ鉄製品には以下のような出土例がある。勝山町小長川遺跡では五基の箱式石棺で構成する墳丘墓の中の中心的な石棺に中国製銅鏡とともに副葬されていた。豊津町川ノ上遺跡では全体で四点の素環頭が出土するが、Ⅰ-六号墓・四-四号棺ではともに銅鏡に伴っている。また、行橋市前田山遺跡八号箱式石棺墓からも舶載鏡とともに素環頭刀子が出土している(行橋市教育委員会「前田山遺跡」『行橋市文化財調査報告書』第一九集、一九八七)。このように京築地域での素環頭の在り方は、弥生時代終末頃の首長墓に銅鏡とともに副葬されることが多く、他の鉄製品とは一線を画している。銅鏡と同様に威信財と考えられていた。
その他の遺物
築城町赤幡十双(じっそう)遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての集落遺跡で、近くの赤幡森ケ坪遺跡などとともに大規模な遺跡を構成する。その中で後期でも終末とされる13号住居跡から朝鮮半島楽浪で制作された土器片が、後期前半に位置付けられる9号住居跡から性格は不明であるが非常に希少な銀製板状製品が出土している。銀製品は本来環状になっていたものと推測されていて一端を欠くが、幅一・一センチメートル、長さ五・四センチメートル、厚さ二ミリメートルの大きさである。これらの出土品から、この地に暮らした人々が大陸との交渉の一端に関与する機会を有していたことが推測される(福岡県教育委員会「賽ノ神遺跡 赤幡森ケ坪遺跡 十双遺跡」『椎田バイパス関係埋蔵文化財調査報告』八、一九九二)。