先に紹介した山国川流域の郷ケ原遺跡の最後は邪馬台国の時代と重なる。九州のみならず、汎日本的に環溝集落は前方後円墳の築造開始と前後して埋められ、終焉(しゅうえん)する。古墳時代の幕開けである。そして邪馬台国の時代、もっと限定すれば女王卑弥呼の死と前方後円墳の開始の時期について、かっては五〇年前後の時間差を想定していたものが近年の銅鏡などの新たな視点からの研究、そして年輪年代学という自然科学的研究などの側面支援によって両者の年代は限りなく接近すると考えられるようになった。
邪馬台国については先にも触れたが、その存続した年代の一点は卑弥呼が魏に朝貢した景初三年(二三九)であり、その後正始八年(二四七)までの間は『魏志』の記録から存続していたことが確かである。一方、確実にその時期のものとわかる我が国の遺跡からの出土品は製作年の陽刻された銅鏡である(表2)。表から分かるように、これらの鏡は元康年鏡を除いて卑弥呼の時代に重なり、特に最初の魏への朝貢および魏からの使節が我が国を訪れた二三九~二四〇年に集中することも重要である。中国大陸・朝鮮半島から一面も出土しない三角縁神獣鏡が卑弥呼へ対して特別に鋳造された銅鏡ともいわれる所以(ゆえん)である。
現在までの考古学的成果から卑弥呼の時代を遡るいわゆる「定型化」した前方後円墳はなく、その頃には「前方後円(方)形の墳丘墓」が北部九州から関東地方にかけて造られたことが明らかになりつつある。卑弥呼の生きた時代は庄内式土器と呼ばれる土器が使用された頃に重なり、卑弥呼の死と定型化した前方後円墳の築造開始の時期が限りなく近いという見方が強まっている。ちなみに奈良県箸墓古墳は卑弥呼の墓として最有力な出現期の前方後円墳である。