三世紀中頃の我が国のことを記した『魏志』倭人伝には三〇の国名が記されていて(表3)、邪馬台国はもとより、それぞれの国が現在のどの地域に相当するものかを巡って数多くの論争がなされてきた。その中で各論者ともに異論のない部分が、対馬(つしま)・一大(支)(いき)・末盧・伊都・奴の国々である。あるいは、現糟屋郡あるいは飯塚市付近に考えられている不弥国(ふみこく)も比較的まとまった見解がなされているといえようか。対馬・一支は範囲が島内に限られるのであろうが、その中でも具体的にどの範囲が国を構成していたかという点になると根拠はない。九州北部の各国についてはなおさらであって、漠然と唐津平野、糸島平野、福岡平野といった比較的完結した平野部が想定されいて、その場合の国境は山岳地帯の分水嶺が考えられている。
また、同書には「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして、得て詳にすべからず。」として「以北」に対馬・一支・末盧・伊都・奴・不弥・投馬(とうま(つま))の国々を記す。言いかえれば対馬国と邪馬台国の間(ルート上)に魏と通好する国がこれだけしかないということである。
前期末~中期後半に複数の青銅器を副葬した墳墓を擁した福岡市吉武遺跡群(旧早良郡)や古賀市馬渡・束ケ浦遺跡(旧糟屋郡)、日田市吹上遺跡(旧日田郡)などの集団は没落し、あるいは優位な集団の支配に下ったのであろうが、弥生終末頃に偉容を整えた吉野ケ里遺跡や甘木市平塚川添遺跡を残した集団はどうして国名が残らなかったのだろうか。渡辺正気氏は『魏志』に記された戸数と平安時代に編纂された『和名抄』に記載された郷数を手がかりとするなどして奴国の範囲を考察している(渡辺正気「奴国の問題」『春日市史』一九九五)。氏によれば吉野ケ里遺跡を含む佐賀平野の大部分も平塚川添遺跡を含む筑後川流域も奴国の版図に含まれる。弥生中期に須玖式土器が使用され、甕棺墓が盛行、銅剣・銅矛・銅戈・多鈕細文鏡といった初期の朝鮮製青銅器から前漢鏡・後漢鏡に至る舶載品の主要な分布範囲であり、青銅器の鋳型が多く発見されるなど文化的に共通する地域であることが傍証とされる。確かにこの地域に共通点は多く、奴国連合を形成していた可能性は高いのであろうが、その場合は国の領域と人口の対比といった点で現在前原市付近の狭い範囲に想定される伊都国の「万余戸」との整合性がとれないのではなかろうか。
伊都国については『魏志』では「千余戸」とあるが、『魏志』が多くを依拠したといわれる『魏略』逸文には「万余戸」とあって、これが正しいものと解されている。高倉洋彰氏は『魏志』の「千余戸余り」は下方修正された数字であり、奴国はやはり佐賀平野東部から筑後川流域を包括する広域の連合体を示すものであろうと考えている(高倉洋彰「倭国の誕生」『金印国家群の時代』一九九五)。ただ、その場合には一支・末盧と伊都との戸数が問題となる。考古学的には伊都がより栄えていたと考えられるからである。
『魏志』の段階でも奴国は邪馬台国・投馬国に次ぐ規模の人口を抱える国と記載されていて、重要な一角を占めており、考古学的にも弥生後期には青銅器生産や集落構造において先進地であったことが明らかとなりつつある。しかし、「一大率」は伊都国に配され、そこには副官も二名いる。政治的には伊都国が上位に位置付けられていた。その理由には「倭国王帥升」の登場から推測されるように既に北部九州で政治的主導権を握っていたらしいことや、「世々王有」といわれる安定した社会を形成していたこと、港に直結していたことなどが挙げられよう。外洋ルートに直結した末盧国でないことは、巨大な奴国への牽制(けんせい)の意味もあるのかも知れない。