庄内式土器という名前は昭和四〇年に設定された比較的新しい名称で、大阪府豊中市の庄内遺跡出土土器を標識とする(田中琢「布留式以前」『考古学研究』一二-二、一九六五)。甕は器壁が薄く尖(とが)り底で、特に壺においては装飾が豊かに施されるという特徴を持っていて、平底の弥生土器と丸底となる古墳時代布留式土器の間を繋ぐものという認識であった。かって、都出比呂志氏はこれを第六様式として弥生時代に含めようとした(都出比呂志「古墳出現前夜の集団関係」『考古学研究』二〇-四、一九七四)が、多くの研究者は古墳時代に使用された土器を総称する土師器として扱った。しかし、庄内式が提唱されて以来、同様の土器の発見が相次いだものの、長大な竪穴式石室を埋葬主体とし、三角縁神獣鏡を出土する前方後円墳の土器は相変わらず布留式に属するものであった。一方で、庄内式土器及びそれと時期的に併行する土器を出土する墳墓は三角縁神獣鏡を出土せず、狭長な竪穴式石室を用いず、一見して前方後円形を呈するものの、前方部が未発達で違和感を覚えるものであった。今ではそうした遺跡を「纏向(まきむく)形前方後円墳」として、三角縁神獣鏡を出土する定型化した前方後円墳と区別することが多い。
しかし、庄内式土器の時代に日本列島の広範囲で土器が移動するという大きな社会の変動があったことが明らかとなっている。それまで各地で独自の展開をしてきた、生活に最も密着した土器がこの頃には文化圏を遙(はる)かに超えた遠方で出土するようになり、やがて前方後円墳が築造される頃には東北地方から九州地方までよく似た形の「斉一的」な布留式土器が使用されるようになる。この意味でも庄内式土器の時代は過渡期であった。
土器の移動と社会変動を象徴する遺跡が奈良県纏向遺跡である。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳の北に広がる遺跡で、調査範囲が狭いことから遺跡の全体は不明瞭であるが、それまで奈良県下で最有力な遺跡であった唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡の終焉に歩調を合わせるように庄内式土器の開始とともに三世紀初め頃に突然出現したとされる。そこでは南九州から南関東に至る広範な地域から土器が持ち込まれており、その割合は平均一五%、場所によっては三〇%を占める。中でも、瀬戸内中・東部、山陰、北陸、伊勢湾沿岸地域の土器が多いという(寺沢薫『日本の歴史〇二 王権誕生』二〇〇〇)。また、箸墓古墳を始めとする纏向遺跡周辺の初期の古墳からは岡山地方を源流とする特殊な祭祀土器(特殊器台・壺)が相次いで発見され、弥生終末期の墳墓と前方後円墳の関係についてもこの土器を通じて一連の変遷を追うことが可能となり、古墳成立に当たって東部瀬戸内地域の勢力が重要な役割を担っていたことが推測されるに至るなど、弥生時代から古墳時代へ激動する社会の震源地と目されている。