土器の移動

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 その纏向遺跡に各地の土器が持ち込まれる頃、京築地方にも新たな波が押し寄せていた。行橋市辻垣(つじがき)地区の遺跡群(ヲサマル・畠田(はただ)・長通(ながどおり))・津留(つる)遺跡などでその一端を垣間(かいま)見ることができる(福岡県教育委員会「辻垣ヲサマル遺跡」『一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告』第一集、一九九三/同「辻垣畠田・長通遺跡」『一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告』第二集、一九九四/同「津留遺跡」『一般国道一〇号線行橋バイパス関係埋蔵文化財調査報告』第一集、一九九一)。これらの遺跡では住居跡などの生活の痕跡が不明であるが、大溝(自然河川?)から多くの遺物を出土している。出土した土器の形態・文様を検討した結果、畠田・長通遺跡では後期土器の三九%が岡山県地方などの瀬戸内系、終末~古墳時代初頭の頃には九四%が外来系土器であり、さらにその五〇%が畿内系、四四%が瀬戸内系の土器であったという。これらは祓川と国道10号線が交わる付近に位置し、津留地区は中世にも「津留の湊」と記された地域で、瀬戸内海に開けた地点であった。また先の前田山遺跡、築城町安武深田遺跡、同赤幡森ケ坪遺跡でもやはり中部瀬戸内系の土器が、大平村郷ケ原遺跡では尾張系の土器も出土している。ここ数年に発掘調査された膨大な資料のほとんどが未整理状態であり、今後も同様の例が増えることであろう。
 東からの波を細かくみると、一つは中期から後期への移行期を中心とする頃に認められそうである。安武深田遺跡では鍛冶炉を伴う円形住居跡が発掘され、そこから水鳥の絵を描いた中部瀬戸内系の土器が出土し、ほかにも彼の地に特徴的な分銅形土製品の破片や異質な形態の土器が多く見受けられる(福岡県教育委員会「安武深田遺跡 安武土井の内遺跡」『椎田バイパス関係埋蔵文化財調査報告』四、一九九一)。辻垣畠田・長通遺跡にも同時期の土器群がある。弥生後期に瀬戸内系の高坏が北部九州へ伝わり、やがてそれまで主流であった鋤先状口縁高坏を駆逐(くちく)して主流となることは以前から指摘されている(柳田康雄「高三潴式と西新式土器」『弥生文化の研究』四、一九八七)。これは周防灘沿岸地域に限ったことではなく、やや遅れるものの玄界灘沿岸地域でも同じである。また、口縁部が筒状となる直口壺も後期になって新たに現れる器形で、これも畿内の後期土器の影響下で成立した可能性が考えられる。
 後期初めは「漢倭奴国王」の金印が下賜された頃で、北部九州の玄界灘沿岸地域では伊都国の井原鑓溝遺跡などの出土品に見るように後漢帝国と頻繁な通好がなされており、玄界灘沿岸地域の国々が勢威を誇っていた時代である。このように安定した状況にあったと思われる北部九州弥生社会でも、一旦放棄されていた環溝集落が中期後半から後期前葉に再び見られるようになり、それ以前の環溝集落と異なって「防御的、臨戦的様相」が看取されるという(吉留秀敏「弥生時代環濠集落の変遷」『牟田祐二君追悼論集』一九九四)。
 同じ頃、呼応するように近畿地方から瀬戸内地方にかけての広範な地域で高地性集落と呼ばれる、日常生活に不便な山頂に多くの遺跡が展開する。寺沢薫氏はこの高地性集落を北部九州の国々に対する防衛線と考えている。結果的にこの時期の大規模な戦闘を示す考古資料はみられず戦闘行為はなかったと考えられているが、これを契機として環瀬戸内的な流通・情報のネットワークが強化されたという(寺沢薫前掲書)。北部九州においても後期は奴国を中心とする地域で独自の青銅器・ガラス製品の生産が盛期を迎え、伊都国王と想定される「倭国王帥升等」による一〇七年の後漢帝国への朝貢が行われるなど、劇的な変化はみられない。両者間の緊張関係は破局を回避して、独自性を保持しつつ交流拡大へと向かったのであろう。この頃に畿内を中心とした地域では銅鐸の第一次埋納がなされ、それまで稀少であった中国製銅鏡が北部九州から東方へもたらされたと考えられている(岡村秀典、前掲書)。西日本の弥生社会に大きな変化が生じ、土器の移動もその一面を示している。
 他方、纏向遺跡に象徴される大量の土器が広域に移動する終末期~古墳時代初頭の場合は様子が異なる。それまで維持されてきた環溝集落の環溝は大量の石や土器とともに埋められて廃絶し、集落は継続しても使用された土器は大部分が在地色を失い、布留式と呼ばれる畿内系の土器が東北地方から九州にかけて席巻(せっけん)する。そしてほぼ同時に前方後円墳が各地で造られ始めるのである。この時点で北部九州の独自性・優位性は失われる。伊都国も「世々王あるも、皆女王国に統属」し、「諸国を検察せしむ」、「一大率」が置かれる、倭国を構成する一国に過ぎなくなった。