邪馬台国の時代の集落遺跡は京築各地でも多く発掘調査されているが、ほとんどが未報告で詳細を知ることはできない。その中でも大平村下唐原遺跡群は巨大な環溝集落で、豊前地域で最有力な集落遺跡の一つであり、現在まで比肩する遺跡は見つかっていない。
また、当時宝器と見なされていた新しい形式の銅矛・銅鏡を手がかりに有力集団の存在を推測することも一つの手段であろう。京築地域では概して青銅器の出土例に乏しく、古い時期の発見のため詳細不明で、かつ散逸したものもある。大まかな出土地が判明しているものとして天生田・馬ケ岳付近の矛一口・戈三口、椎田町湊の矛一口、そして大平村東下の矛一口がある。しかし、これらに対応するような集落遺跡は未発見で、大平村東下も下唐原地区の遺跡群とは標高は低いものの比較的複雑な山岳で隔てられていて、直接的に結びつくとは考え難い位置にある。詰まるところこれらの青銅器を埋納した主体は不明であると言わざるを得ない。
一方、舶載・国産を隔てず宝器と見なされていた銅鏡を出土する墳墓を伴う集団は比較的優位にあった集団と言える。表4に見るように、京都平野と山国川流域の広域にわたって分散して発見されている。ただ、当地では破砕された鏡片-破鏡が多く、完形鏡でも直径一〇センチメートルをわずかに超えるものであることは北部九州社会での地位を示しているのであろう。その中で豊津町川ノ上遺跡の在り方は突出している。遺跡は祓川右岸の河岸段丘上に位置し、一五〇メートルの長さにわたって墳墓が造られていた。開墾などによってかなり削平を受けるようだが、それでも弥生時代終末から古墳時代初めにいたる一七の墳墓群が想定され、検出した箱式石棺・石蓋土壙墓・木棺墓・土墳墓・甕棺墓は計一〇〇基にも及ぶ。その中の三七基が銅鏡・鉄製品・玉類を副葬しており、銅鏡五点、素環頭刀子四点を含む。これらは特定の墓群に偏ることはなく、比較的まんべんなく出土していて一七の墳墓群相互に有意な格差はないようである。また、初期古墳の一号墳丘墓とした遺構が埋葬部を一基とする以外は、いずれも複数の埋葬部を内包していて、家族墓の様相を呈する。銅鏡や鉄製品の集中はほかの行橋平野の遺跡で見られないもので、ここに埋葬された人々の集落は不明であるが、地域を統合した首長層の墓域であったと思われる。
しかし、たとえば山一つ越えた田川郡香春町採銅所宮原遺跡では四基の箱式石棺の中、一号棺から詳細不明の大型鏡片と小型仿製鏡が、三号棺から径一二・三センチメートルの舶載内行花文鏡片、一九・五センチメートルの完形の舶載内行花文鏡が出土している。また、これも遺構の詳細は不明であるが田川市伊加利の箱式石棺からは径一八・六五センチメートルのやはり舶載内行花文鏡の完形品が出土し、嘉穂盆地でも完形鏡を出土する遺跡が点在している。墳墓の年代を細かに推測する材料がないが、京築地域と異なり大型に準じる完形鏡を入手しえた田川・嘉穂盆地の首長は、大陸から直接入手した伊都国などにより近い立場、より高い評価を得ていたに間違いない。玄界灘沿岸地域が主導する旧来の体制との結びつきが弱かった周防灘沿岸地域であったればこそ、前方後円墳を築造する時代にいち早く畿内勢力に参入できたとも言えよう。