古墳を前後の二期に大別するのは二〇世紀初めにさかのぼる。喜田貞吉氏は一九一三年(大正二)『上古の陵墓』を著し、前期古墳の特徴として前方後円形、竪穴式石室、石棺、周湟(しゅうこう)、埴輪など、後期古墳の特徴として円墳、方墳、横穴式石室を掲げた。また後者には大化薄葬(はくそう)の詔(六四六年三月)による造墓・石室規模の制限による墳丘の縮小化を指摘している。さらに両期の流行期については、前期は箸墓古墳(奈良県桜井市、孝霊天皇皇女の墓と伝う)から安閑天皇頃まで、後期は推古天皇頃から大化に至る頃に比定した。これを現在の年代観で示せば前期は三世紀後半から六世紀前半頃、後期は六世紀末から七世紀中頃となる。もっとも、後期の下限についてはのちに天武・持統両天皇合葬陵まで加えていて七世紀末頃まで考えられている。前後両期の交代は六世紀後半頃に想定されていたようである。今日からみればその年代観については問題があるものの、両期墳墓の特徴についての大要がほぼこの頃出されていたのである。現在通用している二区分法は、この後四十数年を経て小林行雄氏によって提唱された(『世界考古学大系3・日本Ⅲ 古墳代』一九五九)。喜田説を継承しながら、被葬者の社会的性格の相違を指摘した点に研究史的発展がみられる。すなわち前期墳墓は「司祭者的性格を脱却して、支配者的地位をしめるにいたった共同体の首長」墓であり、後期墳墓は「共同体が国家の統治機構のなかに吸収されてゆく過程において、その上層部に析出された豪族、官人層のあいだにまで範囲をひろげた」階層墓であるとされた。そして前期は「三世紀末ないし四世紀はじめから五世紀末頃まで」、後期は「五世紀末頃から七世紀末まで」とし、さらに両期にそれぞれ三小期を設けることを提案した。この二区分法では、三区分法の前・中期は前期に包括されることになる。また後期の特徴として「横穴式石室の採用・須恵器の登場、乗馬と馬具の普及、金銅工芸の国産化」をあげて、後期古墳を特色づける変化を一言であらわすとすれば、古墳の「形式においても、葬法においても、大陸文化によってつよく影響された」という指摘は重要な提言である。
今日通用している二区分法は以上を承けて、一九六六年刊の『日本の考古学』Ⅳ巻(近藤義郎・藤沢長治編)で補訂され普及するに至った。ここでは前期を四小期に、後期を三小期に区分している。