一九七二年(昭和四七)、高松塚古墳(奈良県明日香村)で大陸系の人物群像や四神・星宿図など稀有(けう)の壁画が発見され、七世紀末頃の横口式石槨という最終末段階の墓室構造とともに注目を集めてきた。そして前方後円墳が終焉(しゅうえん)を迎える六世紀後半以降、群集墳を構成する個々の古墳も小規模になる傾向が指摘されている。一方では単独で存在する大型の円墳・方墳などが注目される。六世紀末以降を後期からさらに区分して終末期を立てるに至る所以(ゆえん)である。二区分法による後Ⅲ期にあたり、ほぼ七世紀代が充てられる。古代史上の飛鳥・白鳳時代に相当する。その後終末期古墳の研究が深められてゆくと、群集墳もその前半代で造墓活動は終わり、後半代には追葬活動を残すのみとなって、古墳の数も急減してゆく。そこで終末期をさらに前後に分けて終末前期、終末後期とする二小期区分法が行われる昨今の情況である。また終末期古墳にみられる副葬品は、薄葬思想の進展のもとに須恵器を主体として刀剣・玉類などが若干加わる場合もみられるが、後期頃までにみられた質量をそなえた厚葬の風とは格段の相違である。
かくして現在では前期・中期・後期・終末期の四区分法の採用が最も新しい時期区分と言えるのである。