北部九州における古墳の出現

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 北部九州にも畿内の纏向型墳丘墓のような前方部状の突出部を持った墳丘墓が存在する。三世紀末頃の築造と推定される小郡市の津古生掛古墳は代表的な遺跡で、直径二八メートルの円墳で周溝の掘り残された部分から低い突出部が伸びる。埋葬主体は木棺直葬で、棺内から方格規矩鏡一面・ガラス玉・鉄剣・鉄鏃などが発見された。また墳丘や周溝からは、底部に穿孔(せんこう)された二重口縁壺や鶏形土製品が出土している。
 
図7 津古生掛古墳全体図
図7 津古生掛古墳全体図(1/600)

 北九州市小倉南区長野の山崎八ヶ尻墳丘墓は、全長一三メートル、直径一一・五メートルの円丘に幅三・二メートルの前方部状の突出部を有する墳墓で、後円部には重複する三基の墓坑が設けられている。また墳丘裾部には四基の石蓋土坑墓が造られていた。弥生時代から古墳時代へと移り変わっていく過程で営まれた小地域の首長の墳墓と考えられる。
 一方、定型化した前方後円墳は、北部九州の中でもまず豊前地域の瀬戸内海に面した沿岸部に出現する。京都郡苅田町の石塚山古墳や大分県宇佐市の赤塚古墳がこれにあたる。石塚山古墳は全長一三〇メートル、内部主体は竪穴式石室で三角縁神獣鏡七面以上が出土した。赤塚古墳は全長五七・五メートル、内部主体は弥生時代の伝統を残した箱式石棺で、三角縁神獣鏡四面と三角縁竜虎鏡一面のほか、直刀や管玉、勾玉が出土した。
 
図8 赤塚古墳
図8 赤塚古墳(1/1000)

 石塚山、赤塚の両墳の被葬者は豊前の北部と南部にそれぞれ勢力を有した豪族と考えられる。両地域は九州の中でも瀬戸内海を介して畿内と最も近接する地域であり、ヤマト王権成立時にいち早く同盟関係を結んだ勢力だと考えられる。筑前地域では福岡市那珂八幡古墳や筑紫野市原口古墳がこの時期出現する。この二つの古墳はいずれも全長七五メートルで規模を同じくし、墳形は、纏向型墳丘墓に近似する。那珂八幡古墳で一面、原口古墳で三面の三角縁神獣鏡が出土するなど共通点が多い。
 
図9 原口古墳
図9 原口古墳(1/1000)