弥生時代から古墳時代にかけての在地首長層の動向を知る上で、弥生時代終末から古墳時代初頭の墳墓群が確認された京都郡豊津町の徳永川の上遺跡は重要である。
これらの墳墓群からは副葬品として舶載内行花文鏡、小形仿製鏡などの鏡類や大型鉄製釣針、大型透穴付鉄鏃など注目される遺物が出土している。これらの墳丘墓群は、祓川流域を生活基盤としたいくつかの集落の頂点に立つ首長とその家族の墳墓と考えられる。弥生時代の終わりから古墳時代にかけて、複数の集落が統合しその中から新たな首長が登場してきたことを示す重要な遺跡である。
徳永川の上遺跡と同じ弥生時代終末頃、行橋市の竹並遺跡でも方形の溝で区画された墳丘墓が複数出現する。これらの墳墓に供えられた土器を見ると、A10号墳のような地元の伝統をひく弥生土器から、A2号墳のような畿内地方の影響を受けた土師器(庄内式土器や布留式土器)に移り変わって行くことがわかる。また同じ方形の墳丘墓でもH2号墳の段階では、埋葬施設も地元の伝統を引いた箱式石棺や土壙墓にかわり畿内に特徴的な粘土槨が採用されている。集落のリーダーやその家族が葬られたこうした小規模な墳墓にも確実に畿内文化の影響が及んできたことがわかる。