行橋市周辺の前期古墳

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 京都平野には九州の古墳文化成立を考える上で極めて重要な古墳が存在する。京都郡苅田町の石塚山古墳がそれである。この古墳は、その形態や出土品などから九州に最初に出現した(定型化した)前方後円墳とされる。周防灘にのぞむ台地の先端部に築造された全長一三〇メートルの前期としては九州屈指の前方後円墳で、後円部に対して前方部はやや細長く、先端部が撥型に開く前期古墳の形態的特徴をよく示す古墳である。寛政八年(一七九六)に発掘され、鏡一四面・剣・矛・鏃などが出土したと伝えられる。このときの出土品のうち中国製三角縁神獣鏡七面・銅鏃一、素環刀片一が現存している。
 
写真2 石塚山古墳出土三角縁神獣鏡
写真2 石塚山古墳出土三角縁神獣鏡

 昭和六二年(一九八七)に発掘調査され、中国製細線式獣帯鏡片、小札革綴式冑(こざねかわとじしきかぶと)、鉄刀片、鉄鏃、鉄斧、玉類、土師器片などが新たに出土した。後円部の石室は破壊されていたが、墳丘の主軸にそった墓坑と竪穴式石室の痕跡(こんせき)が確認された。近年の調査でこの墓坑の北側に並ぶ新たな埋葬施設が確認されている。
 
図12 石塚山古墳
図12 石塚山古墳(1/1500)

 石塚山古墳は、墳丘・石室・副葬品いずれも典型的な前方後円墳の特徴を備えている。この古墳の被葬者(ないし築造者)は、この地域に勢力を有した豪族と考えられるが、畿内ヤマト王権といち早く同盟関係を結び、なおかつヤマト王権が北部九州において安定した政治的基盤を築いていく上で、重要な役割を果たした人物だと考えられる。石塚山古墳やこれに続く御所山古墳、番塚古墳といった前期から中期にかけての主要な大型前方後円墳は、京都平野北辺の周防灘を望む沿岸部に築かれている。それらに埋葬された豪族たちは京都平野の豊かな穀倉地帯を勢力基盤としていたと考えられるが、これらの豪族たちの居住した集落や居館などはまだ明らかにされておらず、これからの調査が期待される。