景行天皇の巡幸説話

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 『日本書紀』の景行天皇一二年の条には、景行天皇の九州巡幸について次のような記述がある。
 
  一二年の秋七月(あきふみづき)に、熊襲反(くまそそむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず。
  八月(はつき)の乙未(きのとひつじ)の朔己酉(ついたちつちのとのとりのひ)に、筑紫(つくし)に幸(いでま)す。
  九月(ながづき)の甲子(きのえね)の朔戊辰(ついたちつちのえたつのひ)に、周芳(すはのくに)の娑麼(さば)に到(いた)りたまふ。時に天皇、南(みなみ)に望(のぞ)みて、群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「南の方(かた)に烟気多(けぶりおほ)く起(た)つ。必(ふつく)に賊(あた)在(あ)らむ」とのたまふ。則(すなは)ち留(とどま)りて、先(ま)づ多臣(おほのおみ)の柤武諸木(おやたけもろき)・国前臣(くにさきのおみ)の柤菟名手(おやうなて)・物部君(もののべのきみ)の柤夏花(おやなつはや)を遣(つかは)して、其の状(かたち)を察(み)しめたまふ。爰(ここ)に女人(おみな)有(あ)り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其の徒衆甚多(やからにへさ)なり。一国(ひとくに)の魁帥(ひとごのかみ)なり。天皇の使者(つかひ)の至(まうく)ることを聆(き)きて、則ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を拔(こじと)りて、上枝(かみつえ)には八握剣(やつかのつるぎ)を(とりか)け、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を挂(とりか)け、下枝(しづえ)には八尺瓊(やさかのに)を挂(とりか)け、亦素幡(またしらはた)を船(ふな)の舳(へ)に樹(た)てて、参向(まうでき)て啓(まう)して曰(まう)さく、「願(ねが)はくは兵(いくさ)をな下(つかは)しそ。我(やつこ)が属類(ともがら)、必(ふつく)に違(そむ)きたてまつる者有(ものあ)らじ。今将(いままさ)に帰徳(したが)ひなむ。唯残(ただあ)しき賊者有(やっこはべ)り。一(ひとり)をば鼻垂(はなたり)と曰(い)ふ。妄(みだり)に名号(な)を假(か)りて、山谷(やまたに)に響(おとな)ひ聚(あつま)りて、菟狹(うさ)の川上(かはかみ)に屯結(いは)めり。二(ふたり)をば耳垂(みみたり)と曰ふ。残(そこな)ひ賊(やぶ)り、貪(むさぼ)り婪(おほ)きて、屢(しばしば)人民(おほみたから)を略(かす)む。是御木(これみけ)[木、此(これ)をば開(け)と云ふ。]の川上(かはかみ)に居(はべ)り。三(みたり)をば麻剥(あさはぎ)と曰(ひ)ふ。潜(ひそか)に徒党(ともがら)を聚(あつ)めて、高羽(たかは)の川上に居(はべ)り。四(よたり)をば土折猪折(つちをりゐをり)と曰(い)ふ。緑野(みどりの)の川上に隠(かく)れ住(を)りて、独山川(ひとりやまかは)の険(さが)しきを恃(たの)みて、多(さは)に人民(おほみたから)を掠(かす)む。是(こ)の四人(よたり)は、其(そ)の拠(を)る所並(ところならび)に要害(ぬみ)の地(ところ)なり。故(かれ)、各眷属(おのおのやから)を領(つか)ひて、一処(ひとところ)の長(ひとごのかみ)と爲(な)る。皆曰(い)はく、『皇命(おほみこと)に従(したが)はじ』といふ。願(ねが)はくは急(すみやか)に撃(う)ちたまへ。な失(うしな)ひたまひそ」とまうす。是(ここ)に、武諸木等(たけもろきら)、先(ま)づ麻剥(あさはぎ)が徒(ともがら)を誘(をこつ)る。仍(よ)りて赤(あか)き衣(きぬ)・褌(はかま)及(およ)び種種(くさぐさ)の奇(めづら)しき物(もの)を賜(たま)ひて、兼(か)ねて服(まつろ)はざる三人(みたり)を撝(め)さしむ。乃(すなわ)ち己(おの)が衆(ともがら)を率(ゐ)て参来(まうけ)り。悉(ふつく)に捕(とら)へて誅(ころ)しつ。天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に筑紫(つくし)に幸(いでま)して、豊前国(とよのくにのみちのくちのくに)の長峡県(ながをのあがた)に到(いた)りて、行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。故、其(そ)の処(ところ)を号(なづ)けて京(みやこ)と曰ふ。

(「日本古典文学大系」『日本書紀』上)


 ここに見えるように景行天皇の九州巡幸伝承は、まず先遣隊として派遣された武諸木(たけもろき)・菟名手(うなて)・夏花(なつはな)らに、豊前地域の女性首長と思われる神夏磯媛(かむなつそひめ)が天皇に対する服属を誓うことから始まる。
 
表1 文献に登場する豊前の豪族
表1 文献に登場する豊前の豪族

 国東臣(くにさきのおみ)の祖先と記される菟名手という人物は豊後国風土記には、豊国直(とよくにのあたい)の祖先でもあることが記される。すなわち両書によると菟名手は豊の地に定着し、その子孫は後に両地域の首長となったことになる。一方、神夏磯媛は宇佐郡の駅館川上流域や上毛・下毛郡の山国川上流域、田川郡の彦山川上流域、企救郡紫川上流域に天皇に服属しない勢力があることを報告する。これらのまつろわぬ民は武諸木、菟名手らに討たれてしまう。
 
図15 北部九州の古代豪族分布図
図15 北部九州の古代豪族分布図

 このように『日本書紀』に描かれる豊前地域の豪族は、神夏磯媛のように天皇にいち早く服属しこの地域の平定に協力するもの。鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおりいおり)などのように天皇に対する抵抗勢力として描かれ、討伐されるもの。菟名手のように天皇に従って遠征してきた武人でこの地域に定着し、国東臣や豊国直の祖先となったもの。三つの類型に分けられる。
 景行天皇の九州巡幸自体も含めて、こうした『日本書紀』の記事がそのまま史実とは考えられないが、ヤマト王権が九州の豪族たちと同盟を結びあるいは抵抗を排除しながら勢力を拡大していく過程が、こうした伝承に投影されていると考えられる。
 
図16 景行紀に見える豊前地域の豪族の分布
図16 景行紀に見える豊前地域の豪族の分布
①長峡県推定地,②土折・猪折の勢力範囲,③麻剥の勢力範囲,④耳垂の勢力範囲,⑤鼻垂の勢力範囲

 豊前地域の抵抗勢力が先遣部隊により討伐された後、景行天皇は九州に上陸し豊前国長峡県に行宮(かりみや)を設けて滞在した。それゆえにこの地域を「京(みやこ)」というようになったと『書紀』には記される。しかしこの記事については、行宮を置いたから「京(ミヤコ)」というのではなく、むしろ「ミヤコ」という地名が先にあり、『日本書紀』編纂(へんさん)の際、この地名を説明するためにこの説話がつくられたと考えるのが妥当であろう。 長峡県の「県(あがた)」については諸説あるが、三世紀後半から五世紀にかけてヤマト王権によって設けられた行政機関と考えられ、在地の豪族がヤマト王権の地方官として「県主(あがたぬし)」に任命され、後の「郡」程度の地域を所管したと考えられる。長峡県の領域は旧京都郡に相当するものと考えられる。石塚山古墳や御所山古墳に埋葬された人物は、この長峡県を勢力基盤として豊の地域一円に影響力を有した豪族だったと考えられる。