ところで、国造は、それぞれの国の内部を統轄する地方官という性格をもち、ヤマト政権に対して一定の義務を負っていた6。第一に、律令税制につながる貢納や土地・人民の献上がある。ヤマト政権が各地に設定した屯倉や部民は、国造制の成立と切り離しては考えられない。国造はヤマト政権が各地に設定した屯倉や部民を管掌することでヤマト政権との関係を維持しつつ、ヤマト政権との関係をテコにして自己の権力拡大につとめようとした。一方、ヤマト政権は屯倉や部民を各地に設置し、それを国造に対する楔(くさび)とした。
第二に、一族の男女を舎人(とねり)・靱負(ゆげい)・采女(うねめ)としてヤマト政権に貢進し、勤番もあった。これは律令制のもとで采女や兵衛の制度に引き継がれていく。
第三に、最も重要な義務として軍事的任務がある。『日本書紀』欽明紀・敏達紀に朝鮮半島に派遣された国造の姿を伝えるように、国造軍は外征軍の中核として重視されていた。この国造軍の果たした役割は著しく、律令制下の軍団制・防人軍の編成に影響を与えることになる。