国造の姓は一般的に「直」姓と考えられているが、「臣」・「君」(公)も少なからず確認できる。直姓はヤマト政権に隷属的傾向を示すのに対して、臣姓と君姓は辺境の国造でありヤマト政権に抵抗することも多かった。全国的には武蔵・毛野・出雲などの辺境の地にあって強大な勢力を誇った国造には反乱の伝承が残っている。筑紫においては『日本書紀』継体紀にみられる筑紫君磐井の乱が代表的なものになる。ただし、筑紫は地理的に朝鮮半島・中国大陸に近く、またヤマト政権の支配が関門海峡を隔て間接的になるため、当地の国造のなかにはヤマト政権と「国造」として関係を保ちつつ、朝鮮半島とも独自で交流を行ったものがいた。筑紫君磐井はヤマト政権と「筑紫国造」として関係をもち、朝鮮半島の新羅と独自で交流を行っていたことがわかる。有明海に面する火の葦北地方の国造「日羅」はヤマト政権と「刑部靱部(おさかべのゆけい)」として関係をもち、朝鮮半島の百済においては「達率(だちそつ)」の位にある官人であった。現存している文献史料で確認できるのは二例であるが、この他にも有明海周辺地域で同様の行動をとった国造がいた可能性は高い。ここに筑紫の国造の特色がみられる。