ヤマト政権下の地方の組織である「県」の首長を県主と称する。県の分布は国が全国的な分布をもつのと異なって、大和・河内などの畿内を中心に中国・九州といった西国に偏在しているところに特徴がある。これらの地方は古代の先進地域で、はやくからヤマト政権の支配下にあった地域でもあった。この点から県の起源が国よりも古いことがわかる。 県については次の諸説がある。
①大王の家産制的機関に直結した税物・労役の貢進団体とする説。
②五、六世紀以後、各地の地域首長を再編した国造の支配下で、国の下級組織を県とする説。
③県を三世紀後半から五世紀にかけて存在した行政組織とし、ヤマト政権の拡大の過程で解体され、朝鮮半島経営の失敗に基づく支配強化によって五、六世紀にかけて成立したのが国造制とする説。
④県の古訓に「あがた」と「こおり」の二つあることから、県主を長とする「あがた」と稲置を長とする「こおり」に分け、それを前後期に位置づけるか、畿内と畿外に対応させて理解する説。
ところで、各地に県神社・県主神社が存在し、「倭六県」の中心が律令制下でも有力な神社であった。筑紫において、岡県主・伊覩県主の祖が賢木(さかき)に白銅鏡(ますのかがみ)、十握剣(とつかのつるぎ)、八尺瓊(やさかに)をかけて服従したという伝承は県が本来祭祀的集団を基盤としてヤマト政権に統属された地方単位であることを物語る9。また、「倭六県」は大和政権の直領地的性格をもつといわれ、皇室との婚姻関係が認められる。以上が県・県主に関する概要であるが国造制と同様に不明な点が多い。今後の研究・調査に期するところである。