九州地方の豪族を類型的に把握しようとすると、少なくとも三つのタイプを設定する必要がある10。
第一は、ヤマト政権の勢力が濃厚に扶植された地域の豪族。
第二は、九州の在地の豪族層が、根強く成長した地域の豪族。
第三は、ヤマト政権から長く異民族視され、「熊襲」とか「隼人」と袮された地域の豪族。
第一類型
まず、第一の地域はほぼ北九州にあたり、豊前地方も含まれる。東は瀬戸内(周防灘)に、北は玄界灘に面し、西は東支那海に通ずるところで、畿内と朝鮮半島・中国大陸との通廊的役割をになわされていた。そのためヤマト政権の外交ルートの重要拠点として認識されていたのである。このルートに沿って早くから屯倉などが設置され、中央権力が強く浸透したので、在地豪族の勢力の内的な発展は決してスムーズではなく、強大な豪族に成長する前に、中央権力機構に組み込まれてしまった。それゆえ壬申の乱のとき活躍した大分君に典型を見出だすように、在地だけの進展よりむしろ、早くから中央に出て舎人(とねり)となって中央の官人としての栄達をはかるような豪族が出るのもこの地域の特徴の一つである。また、中央権力と密接な関係にあった秦氏らの部民が広く分布しているのも特徴である。
第二類型
第二の地域は、有明・八代の内海に臨む中部九州である。ここでは、これら内海に注ぐ筑後川・嘉瀬川・菊池川・白川・緑川・球磨川などの諸川があり、筑後・佐賀・菊池・熊本・八代平野などをうるおし、内陸の河川流域にはそれぞれ特徴のある古墳文化を形成し発展していった。この地域が九州第一の穀倉地帯であったことは、ここを基盤とする豪族を強大な勢力に育成することになった。また、北九州地域とは異なり直接的にヤマト政権の影響を受けることがなく、多少なりとも選択的に受容態勢をつくる余裕があった。さらに、海に臨んでいたことは、当該地区の豪族をたんに内陸的な農業生産に専念させるだけではなく、海にたいする関心を強くもたせていた。筑紫君磐井・火の葦北地方の国造「日羅」に典型を見出すように、ヤマト政権と関係を持ちながらその一方では独自で朝鮮半島・中国大陸と関係を持ち得た豪族が出るのもこの地域の特徴の一つである。
第三類型
第三の地域はヤマト政権から長く異民族視され、ヤマト政権の非支配地として最後まで残された日向南部・大隅・薩摩などの熊襲の地とか隼人の地と称された南部九州である。北部・中部九州と異なる非農耕的な生産環境と、それに影響される生活方式の差異はヤマト政権の支配体制を貫徹する上に大きな障害となった。八世紀代まで隼人の反乱がくりかえされることになる。熊襲については漠然としており、実体不明である。隼人が史上にその具体的な姿をあらわすのは天武一一年(六八二)のことである。なお、律令時代において中央政府は律令制による支配強化のため、かつての日向国から「薩摩」と「大隅」の二国を分立させる。その際、薩摩には肥後国から、大隅には豊前国からそれぞれ二〇〇戸を移住させて隼人の教化がはかられている11。