四、五世紀のヤマト政権と朝鮮半島の交渉を伝える記事に『日本書紀』神功皇后(じんぐうこうごう)四六年(三六六)三月条がある。百済(くだら)は卓淳(とくじゅん)国(慶尚南道昌原市付近)を介して倭国(ヤマト政権)との通交を望んできたので、この年、倭は使者を百済に遣(つか)わし、両国の国交が開かれた。この後、ヤマト政権は百済に援軍を送って新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)との抗争に介入することとなった。 このほかにヤマト政権と半島との交渉を伝える二つの金石文史料がある。一つは奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)で、もう一つは中国吉林省集安県の好太(こうたい)王(広開土(こうかいど)王)碑である。
七支刀は表裏に六二文字の金象嵌(きんぞうがん)銘文がある。中国晋の「泰和(たいわ)(太和)四年(三六九)に制した七支刀を百済王世子(このときの百済王は近肖古(きんしょうこ)王、世子すなわち中国王朝、東晋の冊封(さくほう)を期待する太子、後の近仇首(きんきゅうしゅ)王)が倭王に贈る」という趣旨を刻んでいる。
これは『日本書紀』神功皇后五二年(三七三)九月条に百済から「七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子(ななつこのかがみ)鏡」が贈られたとする記事と符合する。
この七支刀の授受の背景には、高句麗の南下に備え、ヤマト政権と和親を深め、軍事的援助を期待する百済と、新しい技術と文化を摂取する見返りを期待したヤマト政権の思惑が一致したことが考えられる。
もう一つの好太王碑文は、三九〇~四一〇年間の半島情勢を記した貴重な資料である。この碑は高句麗の好太王没後二年の四一四年(長寿王二年)に、王の功績を讃えて建立した。碑文には、倭が三九一年半島に派兵してから四〇四年帯方界(たいほうかい)(今の黄海南道付近)に侵入して敗退するまでの軍事行動が記されている。
倭・百済・加羅(から)に対する新羅・高句麗の軍事抗争は繰り返され、ヤマト政権の半島における軍事行動は難儀を極めたことがうかがわれる。