沖ノ島の祭祀(さいし)が始まるのは四世紀後半頃で、先に述べた朝鮮半島へのヤマト政権の軍事介入も三六〇年代でほぼ同一時期である。沖ノ島は、宗像氏の司祭する航海神宗像三女神の一神が鎮座する島である。四世紀後半から五世紀前半は、第一段階の巨岩上祭祀。第二段階は五世紀後半から六世紀の岩陰祭祀段階とに分かれる。第一段階の祭祀品は、多くの舶載および仿製の漢式鏡をはじめ碧玉製腕飾(へきぎょくせいうでかざり)(石釧(いしくしろ)・車輪石(しゃりんせき))・鉄製武器(刀・剣・矛・槍・鏃)鉄製工具(刀子(とうす)・鉇(やりがんな)・斧・鎌)・鉄鋋(てってい)(鉄器を造るための原料)・滑石製祭祀品(勾玉(まがたま)・臼玉(うすだま)・平玉・小玉・剣形品・有孔円板)など四世紀後半の畿内型古墳に副葬される遺物と同じ内容であるが、量と質ではるかに北部九州の古墳をしのぐ豊富さである。ヤマト王権の中核地にある石上(いそのかみ)神宮禁足地(奈良県天理市)の祭祀遺物と同様の内容か、あるいはそれ以上の豊富さであったことがうかがわれる(『石上神宮宝物誌』一九三〇)。
この沖ノ島祭祀の背景には、ヤマト政権が四世紀後半以降、半島との外交・軍事的交渉を積極的におし進めるのに伴って対馬・壱岐を通って金官加羅(きんかんから)国(慶尚南道金海地方)に至る最短な「海北道中」ルートを頻繁に利用したため、この九州と朝鮮半島を結ぶ海上の道をとりしきる宗像氏が重要な地位を占めるようになったことがあげられる。元来宗像三神は、宗像氏が司祭する航海の地方神であったが、にわかにヤマト政権の支持を得て「畿内型祭祀」(国家的祭祀)が成立することになった。これは沖ノ島一七号巨岩上祭祀遺跡(図19)発見の仿製唐草文帯三神三獣鏡(ぼうせいからくさもんたいさんしんさんじゅうきょう)と大阪府紫金山(しきんざん)古墳・同御旅山(おたびやま)古墳・京都府百々ヶ池(ももがいけ)古墳などの出土鏡と同笵関係(同じ鋳型から造った鏡)にあることからもうなずける。