五世紀は「倭の五王」の時代ともいわれる。中国南朝の『宋書』、『晋書』、『南斉書』、『梁書』などに倭の通交記事がみられる。それによると四一三年に始まり、五〇二年まで計一三回にわたり倭国王が遣使して爵号の授与を要求している(表4)。ただし最後の五〇二年の「倭王武」は、「雄略記」四七九年崩御であり、南朝の新王朝交替に伴う儀礼的進爵(しんしゃく)で、倭から遣使朝貢しかものではなく、武死後の事である。
先述の書に、讃・珍・済・興・武の五王の名がみられる。これを記紀のヤマト王権の大王系譜と対照すると図20になる。一九七八年九月に発見された埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳の「辛亥(しんがい)年」銘鉄剣が四七一年に比定されるので、それ以前に即位したとみられる四五七年即位のワカタケル大王(雄略)=武ということになる。