中国王朝の冊封体制

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 官爵(かんしゃく)を授けることを「冊封(さくほう)」という。「官爵」は、官と爵からなる称号のことで、四三八年に倭王珍(ちん)が授かった「安東(あんとう)将軍倭国王」は「安東将軍」が官、「倭国王」が爵である。
 四七八年の「使持節都督倭(しじせつととくわ)・新羅・任那(みまな)・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓六国諸軍事安東(ぼかんろっこくしょぐんじあんとう)大将軍倭国王」は倭王武(雄略)に授けられた官爵で、「使持節」とは、皇帝大権の一部(賞罰権など)の委譲を意味する節(せつ)(使者が帯びるしるし)を授与されることを示す官号で、官爵の格の高さを表す。「都督……軍事」は、軍事に関するさまざまなことを統轄(とうかつ)する権限。「安東大将軍」は、軍を将(ひきい)る指揮官に与えられる官号である。また秦韓、慕韓はかつて半島南部の韓族の居住地は多数の小国に分かれ、辰韓(しんかん)が新羅に、弁韓が伽耶に統合され国家を形成していったが、すべて統合されたわけではなく、部分的に小国が残った地域をさすと考えられる。したがって倭王武は、高句麗と百済を除いた新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・倭の六国の安東大将軍を中国南朝から認められたということである。
 ただ将軍号は、中国の序列では征東将軍─鎮東将軍─安東将軍の順となり、倭は最下位であった。高句麗は征東将軍、百済は鎮東将軍であるので、倭王武は四七九年にようやく鎮東大将軍に叙され、百済と同格視されたといえる。
 これは四七五年高句麗の長寿王が三万の兵を率いて百済に侵攻したため百済の蓋鹵(こうろ)王が斬られて首都漢城は陥落(かんらく)し、文周王が即位して熊津(くむなり)(公州)に遷都したことが影響している。倭国王は終始半島における百済・新羅・伽耶三国の軍事統師権の承認を要求しているが、中国南朝は最後まで百済を加えなかった。