半島の緊張関係と新式甲胄

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 五世紀は「甲胄の世紀」とも呼ばれるほど甲胄が大量に出土する。大阪府野中(のなか)古墳は、墓山(はかやま)古墳の陪塚(ばいちょう)の一つで、一辺二八メートルの方墳であるが、胄(かぶと)が一一鉢、短甲が一一領、鉄刀一五三振、鉄鏃約七四〇本の厖大(ぼうだい)な量の武器・武具が出土する。これまで列島出土の短甲は四五〇~四六〇領を数え、そのうちの三五%が畿内から出土するが、北部九州からは七〇領余り、一五%を占め、南九州の日向と並んで出土量が多い。
 
図22 横矧板鋲留短甲を身につけた稲童21号墳の武人
図22 横矧板鋲留短甲を身につけた稲童21号墳の武人

 短甲は方形板革綴(ほうけいばんかわとじ)短甲から長方板(ちょうほうばん)革綴短甲、そして三角板(さんかくいた)革綴短甲、三角板鋲留(びょうどめ)短甲、次に横矧板(よこはぎいた)革綴短甲、横矧板鋲留短甲へと変化する。四世紀後半から五世紀初頭にかけ方形板、長方板革綴短甲は、周防灘沿岸、博多湾沿岸、有明海沿岸部に導入され、次いで三角板革綴短甲が五世紀初頭頃に博多湾沿岸、津屋崎、豊前へ、そして横矧板鋲留短甲が五世紀中頃から筑後、五世紀後半から豊前、津屋崎、有明海沿岸へと導入される。このように方形板革綴短甲から横矧板鋲留短甲の北部九州各地域への導入時期は、畿内中枢部の短甲の型式変化とほぼ同じで、最新式の甲胄が次々に北部九州にもたらされている。
 その背景には、四世紀後半の方形板革綴短甲、これは三六九年に百済が高句麗を破る。そして五世紀初頭の三角板革綴短甲は、四〇四年高句麗、百済を破る。五世紀中~後半の横矧板鋲留短甲の導入は、四五五年の高句麗と百済・新羅の戦いや四七五年の百済漢城陥落といった各々の半島の軍事行動の画期に伴う新式装備の導入によるものである。