行橋市内を中心とする京都(みやこ)平野と一部筑前東部を含む地域の甲胄出土古墳は、古墳時代を通じて一七基余を数える。そのうち一二基は五世紀~六世紀初頭に比定され、先述の朝鮮半島における緊張関係に伴う装備である。図23の甲胄出土古墳分布図を見ても明らかなように、内陸部は桂川(けいせん)町王塚古墳や飯塚市寺山古墳など六世紀代の古墳が多く、五世紀代の甲胄出土古墳は周防灘沿岸部に集中する。とりわけ行橋市稲童古墳群からは、甲胄が多く出土する。一五号墳は方形板革綴短甲、八号墳は衝角付(しょうかくつき)胄、横矧板鋲留短甲、二一号墳は眉庇付(まびさしつき)胄、横矧板鋲留短甲二領と頸甲まで揃っている。眉庇付胄は例をみない優品で、一部金箔張りである。頭頂の伏鉢(ふせばち)に樹枝(じゅし)状立飾(たちかざ)りが立てられ、それには歩揺(ほよう)を針金で取り付け、冠の立飾りを思わせるものである。二五基のうち二〇号墳は全長六八メートルの帆立貝式古墳で、ほかは八~二〇メートルの中小円墳で、甲胄を出土する二一号墳は直径二二メートルの円墳である。
表5を見ると五世紀後半の短甲出土古墳の大半は小円墳である。同じ小円墳でも短甲を保有しない古墳もある。横矧板鋲留短甲で眉庇付胄を副葬する古墳は、福岡県吉井町の月(つき)の岡(おか)古墳(全長八〇メートル・前方後円墳)と熊本県玉名市伝佐山(でんざやま)古墳(直径三五メートル・円墳)と同植木町マロ塚古墳(直径三〇メートル・円墳)がある。月の岡古墳を除くと中小円墳が多い。
こうした甲胄の副葬状況から、前方後円墳で眉庇付胄・横矧板鋲留短甲を保有するものが指揮官で、その下に大型円墳の被葬者、次に小円墳で眉庇付胄と横矧板鋲留短甲を保有する者、四番目に眉庇付胄を持たないが、横矧板鋲留短甲を保有する者、五番目に甲胄を保有しない被葬者、そして最後に古墳に埋葬されない者の六段階の階層序列の軍事組織が、この五世紀後半代に編成されていた可能性がある。
こうした前方後円墳の被葬者のもとに六段階の階層序列の軍事組織が、この北部九州沿岸部を前線基地として編成され、朝鮮半島の緊張関係時に派兵されたのであろう。