四世紀では、苅田町石塚山古墳から小札革綴胄、行橋市ビワノクマ古墳から小札革綴甲胄(詳細不明)、稲童一五号墳から方形板革綴短甲が出土し、古墳時代前期において、これほど集中する地域は、北部九州ではほかになく、この地域が古墳時代前期のヤマト政権にとって橋頭堡的位置にあり、いかに重要視された地域であったかを窺(うかが)い知ることができる。
五世紀に入り、朝鮮半島での軍事介入が本格化すると、さらに甲胄が多くなる。苅田町百合ヶ丘五号墳、竹並横穴墓群から三角板革綴短甲片、稲童二一号墳から三角板鋲留短甲一領と、ほかに眉庇付胄一鉢、横矧板鋲留短甲一領も出土している。同じく稲童八号墳からは衝角付胄(しょうかくつきかぶと)と横矧板鋲留短甲が、犀川町長迫(ながさこ)古墳や苅田町猪熊(いのくま)一号墳、行橋市馬場代(ばばだい)二号墳から各々横矧板鋲留短甲が一領ずつ出土している。苅田町御所山古墳からは、甲胄片のみで、詳細は明らかでない。五世紀末~六世紀初頭の苅田町番塚古墳からは、挂甲(けいこう)が一領出土している。
図24 稲童21号墳遺物出土状況
1:鉄鏃玉類,2:鉄矛,3:鉄刀,4:鉄剣,5:鉄刀,6:鉄鏃,7:鉄剣,8:眉庇付冑,9:同飾り金具,10:短甲、11:頸鎧,12:短甲,13:鉄鏃,14:小札類,15:轡,16:三環鈴,17:馬具類,18:鏡,19:鉄斧鋤類
京都平野での甲胄は、前方後円墳だけでなく、稲童古墳群や百合ヶ丘五号墳、長迫古墳など、さほど大きくない円墳からも出土しており、五世紀における朝鮮半島に対する軍事組織の編成模様が窺われる。