市内の古墳からは、甲胄と共に武器類も多く出土している。そのうち鉄鏃については、五世紀の古墳と六、七世紀の古墳とでは、一古墳あたりの出土数や種類に大きな差異がみられる。
五世紀後半の馬場代二号墳は、竪穴式石室を内部主体とし、副葬品に横矧板鋲留短甲が一領、鉄刀一振のほかに鉄鏃では有茎平根(ゆうけいひらね)の腸抉柳葉(わたくりやないば)式鉄鏃の一種類のみが四一本出土している。腸抉の逆剌(かえり)は、すべて一重のもので二重のものはなく、逆剌の長さが左右で違っているものもあり、タガネを打ち込み、逆剌を造っていることがわかる。鏃身は、先端の鋒部(きっさきぶ)が、やや丸味を帯びたものや左右の角度が違うもの、それに鋒から逆刺までの長さに長短がみられることなどから使用による砥(と)ぎ減(べ)り、磨耗が明らかである。茎部(なかごぶ)は、竹状の縦筋が銹着、残存しているが、桜皮被はみられない。
六世紀後半代の竹並C-三号横穴墓からは、長頸(ちょうけい)腸抉柳葉式と、有茎平根方頭(ほうとう)式と有茎平根圭頭(けいとう)式鉄鏃の三種類があり、出土本数も七~八本と少なくなる。茎部が湾曲したり、砥(と)ぎ減りによる磨耗がみられ、かなり使用しているようである。
七世紀代の竹並G-四九号横穴墓からは、長頸鑿(のみ)箭式、長頸柳葉式、長頸片刃箭(かたはや)式、有茎平根方頭式、有茎平根五角形式鉄鏃の五種類があり、出土本数も七~八本である。六世紀とは一古墳あたりの出土本数は変わらないが、一古墳あたりの種類が増える。すなわち一種類あたりの本数が少なくなっている。刃部や鋒の砥ぎ減りによる磨耗(まもう)がみられ、かなり使用していることがわかる。
五世紀は、横矧板鋲留短甲を大量生産する時期で、鉄鏃も限られた工房で腸抉柳葉式鉄鏃など同一種類を大量生産しているが、六、七世紀になると、多種類の鉄鏃を少量ずつ生産するようになったものと思われる。