四世紀後半以降の朝鮮半島へのヤマト政権の軍事介入に伴い、新たな技術と共に騎馬文化が我が国にもたらされた。これまでのところ最も古いのは、福岡市老司(ろうじ)古墳の捩(ね)じった鉄棒を銜(はみ)(馬の囗にくわえさせる所)に使用した轡(くつわ)が出土している。渡来人の墳墓と言われている甘木市池の上六号墳からも同様の轡が出土している。老司古墳は全長七五メートルの前方後円墳で、内部主体は竪穴系横口式石室である。副葬品には舶載三角縁神獣鏡片や方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡など鏡が六面、素環頭大刀、三角板革綴短甲などを豊富にもち、玄界灘に面し、軍事的性格の被葬者と考えられる。我が国への初期の馬具の導入は、朝鮮半島情勢に伴い新しい墓制や技術と共に騎馬の風習がもたらされたことによる。
しかし当初は轡のみで、鐙(あぶみ)はそれより少し遅れてもたらされている。大阪府七観(しちかん)古墳・同鞍塚古墳・滋賀県新開一号墳・福岡県月の岡古墳など五世紀前半から中頃の古墳に木心鉄板張輪(もくしんてついたばりわ)鐙が出土する。同じ時期の大阪府誉田丸山古墳の金銅製龍文透彫鞍金具(りゅうもんすかしぼりくらかなぐ)は、旋転する細身の龍身を精緻な技法で表現する優品で、鮮卑慕容(せんぴぼよう)(四世紀頃のモンゴル系の遊牧民族)─高句麗─伽耶を結ぶ文物の流れを示すものとして重要である。
杏葉(ぎょうよう)は、五世紀後半になって新たに導入された馬装具である。福岡県津屋崎町の勝浦一二号墳や岡山県築山古墳、長野県新井原四号士墳などから剣菱形(けんびしがた)杏葉が出土する。玄界灘や瀬戸内海沿岸の首長墓から出土することが多く、轡と同様に半島の軍事介入に伴ってもたらされた可能性が強い。