五世紀の高句麗南下による抗争に伴いヤマト政権は、この周防灘沿岸や響灘沿岸地帯を前線基地とし、朝鮮半島へ派兵した。そうした半島南部の抗争化に伴い、半島の人たちもこの列島に渡ってきている。この豊前にもいくつかの渡来人の痕跡がみられる。池(いけ)ノ口(くち)遺跡(築上郡新吉富村垂水字池ノ口)は五世紀前半代の竪穴住居跡が三〇軒余あり、そのうちの三軒からオンドル遺構が見つかっている。オンドルとは朝鮮半島の暖房装置で、方形の竪穴住居の四周に煙道となる溝を巡らせ、その煙道の上に蓋(ふた)を被(かぶ)せる。そして住居の隅のカマドで薪(たきぎ)を燃やし、その燃焼空気を四周の煙道を通して住居床を暖房する方法である。我が国は朝鮮半島より南に位置するため暖かく、オンドルを必要としない。しかし寒い半島からの移住者たちは、当初はオンドルを必要だと思い構築したが、さして必要でないため次第に構築しなくなったものと思われる。
行橋市南泉の鬼熊(おにくま)遺跡は、弥生時代から中世にかけての集落跡である。この五世紀の第八号竪穴住居跡から伽耶系縄蓆文土器が出土している。蛍光X線分析という胎土分析から伽耶地域の製品で、持ち込まれたものという結果が得られた(三辻利一「鬼熊遺跡出土縄蓆文土器の蛍光X線分析」行橋市文化財調査報告第二七集、一九九九)。
築上郡大平村土佐井(つつさい)の土佐井一号墳は、六世紀末頃の径一四・五メートルの円墳である。横穴式石室を内部主体とし、須恵器や耳環、玉類、銅釧が発見されている。この銅釧は、慶尚南道鳳渓里(ぽんげり)大型墳の銅釧と類似し、半島製品の可能性も指摘されている(亀田修一「渡来人のムラをさがす」石川県立歴史博物館研究紀要一四、二〇〇二)。
土器や銅釧などの製品は、製品のみが持ち込まれたことも考えられるので、人の移住とは直接結びつかない。しかし入手経路などは明らかではないものの、こうした渡来系遺物の存在には渡来人が介在しているのであろう。
六世紀以降にも渡来人の痕跡が知られる。穴ヶ葉山一号墳(築上郡大平村下唐原)は、六世紀末頃に比定される径二三メートルの円墳で、内部主体は横穴式石室である。この石室の壁面に、垂下する大形木葉文の線刻画が描かれている。木葉文は桑の葉と考えられ、養蚕、絹といった渡来人との関りを想定させる(亀田修一、二〇〇二)。
五三五(安閑天皇二)年には九州に八ヵ所の屯倉(みやけ)(ヤマト政権直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉)がある。豊前の築上郡では桑原(くわはら)屯倉が設置される。豊前では椿市廃寺や豊前国分寺などで新羅系古瓦が出土しており、北部九州の屯倉と新羅系古瓦の分布が重なっていることから、屯倉の設置も国家的背景のもとに秦氏(辰韓(しんかん)『新羅』系渡来人)を中心として渡来系氏族が再編成されたと考えられる(小田富士雄「豊前における新羅系古瓦とその意義」『九州考古学研究 歴史時代篇』学生社、一九七七)。
正倉院文書の大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍帳に上三毛郡塔里・同郡加目久也里の名が見える。前者は穴ヶ葉山古墳群一帯の旧唐原(とうばる)村(現在の築上郡大平村)あたり、後者は旧黒上村梶屋(現在の豊前市)あたりに比定されており、穴ヶ葉山古墳の被葬者も秦氏と同族関係の在地首長層である(小田富士雄「福岡県・穴ヶ葉山古墳の線刻壁画」『九州考古学研究 文化交渉篇』学生社、一九九〇)。