海を渡ってきた人々の中には、手工業を職とする工人(こうじん)たちも多く含まれていた。むしろヤマト政権や各々の地方豪族たちが、百済や伽耶、新羅の高度な技術を身につけた工人たちを率先して招請した。
豊前国仲津郡天生田村(現在の行橋市天生田)の大将陣古墳出土の金銅製飾履(こんどうせいしょくり)なども渡来系技術者によって我が国に伝えられた製作技術により作られた製品の一つである。アマルガム法といい、水銀で金を溶かし、銅に塗って水銀を蒸発させて金メッキを施す方法である。新羅の国は『日本書紀』神功皇后紀などに「眼炎(まかがや)く金銀(こがねしろがね)の国」、「財宝(たから)の国」という代名詞が生まれるほど金・銀・金銅製品を盛んに用いたのであろう。
金工細工品は、冠帽・垂飾付耳飾・帯金具・飾履といった支配者階級の身辺を飾る装身具が多い。そのほかの鍍金製品は馬具・武器・甲胄などの装飾にも使っている。
この大将陣古墳出土飾履は、長さ一尺八寸(五四・五センチメートル)もあり、実用ではなく、儀礼用である。薄い銅板を、底板と左右側板に切り抜き、合わせ、表面には歩揺(ほよう)を針金で取り付けたものである。時期は六世紀末~七世紀頃で、製作技術は、五世紀代に細金細工技術として伝えられたものである。
大将陣古墳は、現在の所在は不明であるが、天生田村付近に身辺を金工細工品で飾る首長層が存在した証左である。