五世紀における渡来系技術を代表するもの鋲留(びょうどめ)技術がある。我が国ではそれまで鉄板と鉄板を革紐で綴じた革綴短甲を製作していたが、五世紀中頃に新たな鋲留技術が伝わってからは、甲胄の強度が非常に増した三角板鋲留短甲や横矧板鋲留短甲が造られるようになった。この鋲留技術によって孔に鉄鋲を通して内部の頭を叩(たたき)きしめるだけになったので大量生産が可能になった。それに甲胄だけではなく、金銅製装身具の冠の帯部や帯金具、飾履の合わせ目、馬具などの広い分野にわたって活用できるようになり、各々の製作技術が飛躍的に進歩した。
先の鍍金技術が装身具から馬具・武器・甲胄などに応用され、身辺を飾ったが、この鋲留技術もまた甲胄だけでなく馬具や武器、装身具へ広まったことからみて、当初は武器・武具・馬具・装身具などの渡来系技術集団が相互に技術交換できる状態、関係にあったと考えられる。
また数百領以上に及ぶ三角板鋲留短甲や横矧板鋲留短甲が、高さ一尺五寸(四五センチメートル)になるように造られ、形式も統一化されてくることや、鉄鏃が四世紀では多種類の形式のものが少量ずつ副葬されていたのが、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神陵)の陪塚と想定される野中アリ山古墳は、扁平な有茎(ゆうけい)三角形式と腸抉柳葉(わたくりやないば)式の二形式の鉄鏃を一五四二本も副葬していた。こうしたことから技術者たちをかなり集中的に掌握し、生産に従事させたことがわかる。
金・銀・金銅製品のように支配者階級の身辺を飾る貴金属工芸のように大量生産を必要としない技術集団、あるいは一般民衆には縁遠い特殊な技術集団や、武器・武具の生産のようにヤマト政権の利害に直接影響を与える生産については、生産にたずさわる技術者集団をかなり中央集中的に掌握し、「官営工房」的な生産態勢をとっていたのであろう。
しかし日常必需品的な農工具・鎌・鉄斧・手鎌(てがま)・鉇(やりがんな)・釘・釣針などは、鍛冶工房が古墳時代中期には九州から東北まで広がっていることから、各地域の首長層が積極的に技術者を招いて従事させたものと想定される。