五世紀の技術革新とともに横穴式石室という新しい大陸系墓制も導入された。四世紀後半以降、ヤマト政権の半島南部への軍事介入とともに新しい文化や技術が我が国に入ってきたが、葬送思想も玄界灘を望む福岡・佐賀両県の筑・肥沿岸部にもたらされた。従来の竪穴式石室は、前方後円墳に首長個人を埋葬する「畿内型古墳」と呼ばれるものである。近畿地方から東北~九州まで伝播し、各地の首長層、とりわけヤマト政権と政治的関係をもった首長層に採用され、新首長が墓前で首長権の継承儀礼を行った後に密封するという我が国伝来の葬送観念であった。
新たに登場した横穴式石室は、家屋を思わせる横口構造で、首長夫婦や直系親族など複数の家族成員の追葬も可能にした家族墓の形式を取り入れたものである。その思想背景には、現世的生活が死後の世界(黄泉国(よもつくに))である古墳内において継続するという大陸伝来の家葬思想があった。
すなわち石室の中は、死者の世界としての家であり、安らぎの場所であるとも考えられた。図39は、高句麗の大型積石塚として知られる太王陵の石室見取図である。一辺六六メートルの方墳で、高さ約一五メートルである。墳頂部に赤色花崗岩の巨石天井石が露出し、内部主体は西に開口する切石積の横穴式石室で、内部を切石で家形に構築している。
こうした大陸の思想を背景に石室内には、生前の生活必需品が副葬される。食器としての土器、身辺を飾る装身具、身分を表象する威儀具や儀礼的装身具、権力・軍事力を表象する鉄製武器・武具・馬具などが納められた。
従来の前期古墳には、鏡鑑・碧玉製腕飾・玉類・武器など、極めて宗教的、呪術的性格の強い副葬品であった。
横穴式石室の導入は、こうした葬送観念に革新的な転換をもたらしたと言えよう。