四世紀末頃に初期横口構造の石室が、玄界灘沿岸部の有力首長層に導入されたことは、四世紀後半以降の高句麗南下に伴うヤマト政権による百済支援のための軍事介入の結果、墳墓構築技術の一部が伝達受容されたことによる。
朝鮮半島における最古の横穴式石室として注目されるのが、一九三二年に平壌駅構内で発見された㙛築墳である。㙛(煉瓦)に「永和九年三月十日遼東韓玄菟太守領佟利造」の銘文を押し出す。永和九年(三五三)は中国東晋王朝の年号で、楽浪郡が高句麗に亡ぼされた三一三年から四〇年も経つが、漢民族系の楽浪遺民社会では伝統的な方形プランのドーム天井形式の㙛築墳を踏襲している。しかし、㙛室の上半部を㙛ではなく割石を積み上げていることは、㙛から割石への過渡的な形状を示しているものと思われる(榧本社人「横穴式石室の年代について─楽浪末期の古墳に関連して」『古代学研究』第五号、一九五一)。
楽浪地域における横穴式石室墳の出現を考える上で重要なものに南井里一一九号墳がある。玄室と羨道からなる横口式の割石積石室墳である。やや胴張り気味の長方形プランである。四壁は片麻岩質の板状割石を、面をそろえて平積し、上方に持ち出して空間をせばめていく持ち送り技法がみられる。壁面の構築にあたり割石を空積みせず、間に漆喰を用い、構築後はさらに壁面全体に漆喰を塗る。この壁面の化粧は、後の高句麗や百済の古墳に通じるところがある。
四壁各隅の組合せは、相互の隅石が交互に入り組み、校倉造(あぜくらづく)りの木組を思わせる技法がみられ、この技法は我が国の横穴式石室にも伝えられた技法である。またこの南井里一一九号は上半部を失っており、明らかではなかったが、ソウル特別市東郊の漢江を渡って二・五キロメートルの低丘陵上に所在する百済初期横穴式石室の可楽洞四・五号墳は、最上段の天井石を受ける石に大形の割石を両壁に架け渡す力石(ちからいし)的用法がみられる。この技法は高句麗古墳の石室天井にみる三角持送式技法の残存の可能性がある。こうした石積壁材構築技法は、楽浪地域における出現期横穴式石室墳である永和九年墓や南井里一一九号墳に系譜をたどることができる(小田富士雄「横穴式石室の導入とその源流」『九州古代文化の形成 上巻 弥生・古墳時代篇』一九八五)。