九州における横穴式石室導入期においては、新しい墓制の受容に対し、在地墓制の側からいくつかの対応がみられた。それらは大別すると竪穴系横口式石室、横口式家形石棺・石棺式石室、横穴式石室の三つとなる。
まず竪穴系横口式石室は、一九五七年の東亜考古学会による佐賀県唐津市迫頭(さこがしら)古墳群の調査で、竪穴式石室に横口をとりつけたタイプの石室が初めて知られるようになった。その後「在来の竪穴式石室の側から横穴石室の導入に対応しようとする表れと解される」として『竪穴系横口式石室』と命名された(小田富士雄「総説 古墳時代の九州」『九州考古学研究古墳時代篇』一九七九)。
しかしこの古墳は、横穴式石室と知られていた福岡市丸隈(まるくまやま)山古墳や佐賀県横田下(よこたしも)古墳の五世紀中頃より確実にさかのぼりうるものではなかった。その後、一九六六年に墓道を伴う原初的な竪穴系横口式石室の福岡市老司古墳が発見され、五世紀前半にさかのぼる事が確実となった。そして一九八五年に谷口古墳の横口部が発見され、四世紀末まで確実にさかのぼることになった。
竪穴系横口式石室の原則は、竪穴式石室に小口を開口させて横口閉鎖させた石室であるため、一般的な横穴式石室にみる楣石(まぐさいし)(横口の上を横断させた石)の架構や前壁(横口部の楣石から上の壁)構築は、この竪穴系横口式石室には含まれない(蒲原宏行「竪穴系横口式石室考」『古墳文化の新視角』古墳文化研究会編、雄山閣、一九八三。
一般に長さ二メートル前後、幅・高さ一メートル未満程度のものが多く、狭長な石室である。石組みは当初基底部から板石を平積しているが、のちに四壁に石材を立てて腰石とし、その上に平積する技法に変化する。それと共に横口部の左右に門柱のような袖石(そでいし)を立て、天井石を受けるようになる。
横口外部は当初前庭に墓道を付設し、内外を結んでいたが、その後左右側壁に石積するようになり、初現的な簡略化したものから外広がりに石積をして、明らかに墓前祭のための前庭部を造ったり、羨道状に長く左右壁を平行して構築したものに変化していく。
また墓道と接する横口部壁は、上方に扉石を被せ、墓道から室内に階段状に下っていくものから、石室の床面と墓道がほぼ平坦に通じるように変化している。
谷口古墳や老司古墳など、初期の竪穴系横口式石室を内部主体とする古墳は、前方後円墳など有力首長層に用いられることが多かったが、五世紀中頃以降は、直径一〇~二〇メートルの小円墳など小規模古墳の中小首長層に用いられるようになったことが大きな特徴の一つである。
行橋市内では稲童(いなどう)八号墳や二一号墳、苅田町の猪熊二号墳、勝山町中原一・八号墳、犀川町長迫古墳、北九州市城ノ崎(じょうのさき)三号墳、こうしんのう一〇号墳などがみられ、そのうち稲童二一号墳、長迫古墳、猪熊二号墳は三角板革綴短甲や横矧板鋲留短甲の武具、甲胄を所有しており、五世紀後半代の竪穴系横口式石室は、武人的性格を有する中小首長層に多く用いられる傾向にある。前節で述べたようにこの周防灘沿岸部は、朝鮮半島派兵のための前線基地としての役割を担ったことから考えれば、これら武器・甲胄を所有し、竪穴系横口式石室に埋葬された中小首長層たちは、対半島に対する軍事組織の一員であった可能性が強い。