横穴式石室

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 これまでは、在来の竪穴式石室や家形石棺に横口部を導人した竪穴系横口式石室や横口式家形石棺・横口石棺式石室であったが、これらとは系譜の違う、新たな横穴式石室そのものも五世紀頃から導入され始める。
 北部九州で最古の横穴式石室は、福岡市鋤崎(すきさき)古墳である。今津湾を臨む丘陵上に位置し、全長六二メートルの前方後円墳である。石室は後円部から前方部に向かって開口する。玄室は長さ三・四メートル、幅二・五~二・七メートル、高さ二メートルで、長方形プランである。四壁は玄武岩の板石を平積し、両側壁は急傾斜に持ち送って(内側に傾斜して)いるため、構築途中で崩壊を招き、石柱で壁を支えていた。室内には奥壁と左右壁沿いに板石を組み合わせた屍床を「コ」字形に配置する。五世紀前後に比定され、この段階では壁の持ち送り技術などに未熟さがみられる。
 次の段階には佐賀県浜玉町の横田下(よこたしも)古墳がある。玄界灘を臨む海抜六〇メートルの丘陵上に築かれた円墳である。南に開口する長方形プランで、平天井の単室の横穴式石室である。羨道は著しく東側壁寄りに位置し、奥壁沿いと西壁沿いに玄武岩の板石を組合わせた箱式石棺を安置する。この古墳は出土遺物などから五世紀前半~中頃である。
 
図45 横田下古墳石室
図45 横田下古墳石室

 鋤崎古墳タイプは、その後四周に障壁をめぐらすようになり、さらに障壁に彫刻や彩色による幾何学的な装飾画を施すようになる。井寺古墳や千金甲一号墳など、その多くの分布は熊本県下に集中していることから「肥後型(ひごがた)石室」と呼ばれている。
 横田下古墳タイプのような長方形プランのものは、その後四壁の基礎に石材を立て巡らす「腰石(こしいし)」の使用と、玄門左右に袖石を立てる技法に発展する。また石棺棺蓋や壁面に接する側壁は石棺材を省き、石室壁面で兼用し、石棺から石室内を区画する障壁化に変化していく。そして石室の大型化に伴い花崗岩の使用が増え、筑・豊・肥地方に流行し、「北部九州型石室」と呼ばれる。
 その後、さらに六世紀前半頃から玄室の前面に副室を設けて、複室構造へと発展していく。