肥後型(石障系)石室

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 玄界灘に面する地域に最も早く出現した竪穴系横口式石室の谷口古墳、それに続く石障系石室の鋤崎古墳の築造後、五世紀前半頃に北部九州型石室とは少し違った横穴式石室が、有明海沿岸部に出現する。玄室平面プランは、方形を基本とし、左右圜側壁だけでなく、奥壁、前壁までも持ち送り技法を用い、ドーム形(穹窿(きゅうりゅう))天井構造にする。また石室内は、周壁沿いに「コ」字形配置をとる三屍床(ししょう)構成がみられる。この「コ」字形屍床配置は、この後横穴墓に継承され、七世紀代までたどることができる。
 
図46 肥後型(石障系)石室
図46 肥後型(石障系)石室

 肥後型石室は、加工しやすい阿蘇凝灰岩の露頭に恵まれた肥後地方に集中して盛行するが、唐津市樋(ひ)の口(くち)古墳や久留米・日輪寺古墳などにもみられ、肥前・筑後まで分布が広がる。
 この豊前では五世紀後半の御所山(ごしょやま)古墳が、石室の四壁に一九枚の板石を立て巡らす石障系石室である。豊前・豊後にはほとんどみられない珍しい存在である。五世紀後半は、肥後の玉名市伝佐山古墳や植木町マロ塚古墳といった一五~三五メートルの円墳に横矧板鋲留短甲や眉庇付冑が副葬され、同じように豊前においても稲童二一号、長迫古墳などの中小円墳にも横矧板鋲留短甲などの武具の副葬がみられることなどから、全長一一八メートルの前方後円墳である御所山古墳は有力首長層で、その背景には半島への軍事介入がかかわっていると思われる。
 
図47 御所山古墳玄室図
図47 御所山古墳玄室図