五世紀代の北・中九州に新たな横口系の石室、竪穴系横口式石室や横口式家形石棺、横穴式石室が各々導入されたが、そのうち竪穴系横口式石室と横口式家形石棺・横口式石棺式石室は、六世紀頃から衰退、消滅していく。そして横穴式石室の横田下古墳タイプは、腰石の使用や石室が大型化する。六世紀前半には肥前・筑前・筑後・肥後の有明海沿岸部の地域で、玄室と羨道の間に副室(前室)が設けられる複室構造の横穴式石室が新たに出現する。初期のものは前室としての明瞭な区画はみられず、閉塞(へいそく)石やあるいは天井石を一段高くするなどして室化する。その後側壁に柱石を立てて前室としての区画が明確になる。筑前・豊前・豊後といった北東九州では一時期遅れ、六世紀中頃の桂川町の王塚古墳に羨道を閉塞石で区画した原初的な複室構造が出現する。
この複室構造の横穴式石室は、京都平野にも数多く築かれる。全長四二メートルの隼人塚前方後円墳(行橋市)や勝山町庄屋塚古墳・綾塚古墳などがある。
こうした六世紀中頃における一部の横穴式石室の単室から複室化への変化は、五一四年の百済への四県割譲や、五六二年に任那が新羅と百済によって分割、滅亡し、我が国の半島政策の放棄に伴い、これらの動乱を逃れて渡来した下級技術者たちが北九州の有力首長層の下に保護され、高句麗古墳にみるような中国思想を導入した日月星辰(せいしん)、四神図、それに胡風に換骨奪胎(かんこつだったい)した生活描写を生み出したり、複室構造の横穴式石室を構築したのではないかと考えられる(小田富士雄「横穴式石室古墳における複室構造の形」『九州考古学研究 古墳時代篇』一九七九)。