六世紀後半~末頃になると、複室構造の横穴式石室がさらに一室増え、前・中・後室の三室構造の横穴式石室が出現する。九州では現在のところ一一基余みられ、中でも壱岐と京都平野に各四基集中して築造している。出現の背景には、前方後円墳の廃止に伴う首長墓としての権威の表象や、鳥栖市田代太田古墳の中室の両側に屍床を設け、玄室だけでなく中室にも埋葬するようになったことは、家族墓としての意識の変化などがあると思われる。壱岐と京都平野に集中するという事実は、共に朝鮮半島情勢に対する前線基地が設けられた地域で、ヤマト政権との密接な関りも出現要因の一つと考えられる。
行橋市入覚バンリュー古墳は、直径二五メートルの円墳で、一基単独に築かれ、首長墓として位置付けられる。勝山町の勝山古墳群は、現存三基の円墳で、三基とも三室構造の横穴式石室を内部主体とする。以前は丘陵裾部に四~五基、東西に並んで築かれた古墳群で、何れも三室構造の横穴式石室であれば、追葬数の増加に伴う増室ではなく、三室構造の横穴式石室を構築するという葬送儀礼の造墓集団ということになる。副葬品が明らかでないため、被葬者の性格を判断し得ないが、三室構造の横穴式石室を構築するという造墓集団が勝山町に存在していたことになる(吉村靖徳「北部九州における三室構造横穴式石室の諸相」『古文化談叢』第四五集、二〇〇〇)。