四世紀末頃の玄界灘沿岸部に導入された横口系の石室は、竪穴式石室に横口部を設けた竪穴系横口式石室として谷口古墳から老司古墳へと継続する。これとは別に五世紀前後には同じく玄界灘沿岸部の鋤先古墳に「コ」字形に屍床を配置する横穴式石室が出現し、丸隈山、横田下古墳へと継続する。
こうした玄界灘沿岸部に導入された二つの横口系石室とは別に、有明海沿岸部でも小鼠蔵(こそぞう)一号墳や大鼠蔵尾張宮古墳など天井部はドーム型で、石障を立てる方形プランの肥後型石室も五世紀初頭~前半頃に別のルートで導入され始める。
このように五世紀前後に各々のルートで横口系の石室が導入されるが、玄界灘沿岸部では前方後円墳など有力首長層に取り入れられ、五世紀中頃から竪穴系横口式石室は稲童二一号墳など中小首長層に替わる。横田下古墳タイプも竪穴系横口式石室と同様に初期の段階には前方後円墳に多く、五世紀中頃以降、後半代に中小古墳に多く用いられるようになる。有明海沿岸部は、玄界灘沿岸部とは異なり、初期の段階から中小古墳にも採用される。五世紀中頃には石人山古墳など横口式家形石棺が出現し、後半には横口式家形石棺をそのまま直葬する横口石棺式石室も出現する。加工し易い阿蘇泥溶岩を入手できる距賍にあったことが大きな要因の一つと考えられるが、装飾古墳など筑後を含む有明海沿岸部の北部九州とは異なる古墳文化の萌芽と言えよう。