京都平野における五、六世紀の横穴式石室を概観すると、五世紀後半の犀川町の長迫古墳は、横矧板鋲留短甲を出土した円墳で、竪穴系横口式石室である。平面プランは長方形を呈し、側壁は腰石を立てた上に煉瓦積、斜め積、天井石は四石である。
五世紀末~六世紀初頭の苅田町番塚古墳の平面プランは、羽子板形で、「ハ」字形に開く短い羨道部を付設する。側壁は腰石を立て、その上に小型の石を煉瓦積、斜め積をし、一部重箱積もみられる。わずかな持ち送りを施し、天井石は三石になる。
六世紀中頃の勝山町箕田丸山古墳前方部石室の平面プランは、奥壁の横幅が広くなり、鏡石(かがみいし)が大型化し、一石となる。側壁の腰石も大きな石を立て、その上二~三段目までやや大型の石を、その上は小型石を積み上げる。煉瓦積、斜め積で、持ち送りをし、天井石は一石で少なくなる。袖石は柱石を立て、玄室と羨道部を区画する。
ほぼ同時期の庄屋塚古墳前方部石室は、複室構造で、平面形は長方形プランである。鏡石や腰石は大型の石材を立て、その上の石材もやや大きめの石を用い始める。左右両側壁の持ち送りは、一五~二〇度の傾斜をさせるが、奥壁と前壁の持ち送りは少し傾斜させる程度である。重箱積が多くなる。玄室の天井は、前室の天井より一段高く、天井石は各々一石である。
六世紀後半の隼人塚古墳は、複室構造で、長方形プランを呈する。鏡石は大型化し、側石も大型の石材を使い始める。袖石は柱石を立て、玄室天井は前室より一段高くする。玄室幅と前室幅はほぼ同じで、側壁の持ち送りはかなり傾斜させ、重箱積である。
六世紀後半~末の甲塚方墳の平面プランは、玄室がやや方形プランに近くなり、前室幅は玄室幅より少し狭くなるが、羨道部よりは広い。楣石と腰石の高さが同じになり、腰石の石がより大型化している。重箱積で、天井が高くなり、持ち送りをし、天井石を一石にする。
六世紀末の綾塚古墳の平面プランは、複室構造で、玄室は方形プランを呈し、前室幅は一段と狭くなり、羨道部と同じ幅になる。各部屋の境には柱石を立て、楣石は腰石とほぼ同じ高さにし、前室天井と玄室天井の高さもほぼ同じになる。重箱積で、石材も大型石を用いる。
七世紀初頭頃の橘塚古墳の平面プランは、玄室が方形気味の長方形プランで、前室は羨道部と一体化し始め、羨道部との間に柱石を立てて区画するのみである。重箱積で、前室天井は、玄室天井より一段低くなり、楣石は腰石とほぼ同じ高さである。畿内の影響を受けて、奥室を横口式石槨化し始めていると思われる。