九州型古墳文化を代表するものに装飾古墳と石人石馬があげられる。この石人石馬は、五~六世紀に北・中九州に分布し、最も古いのは大分県臼杵市の臼塚(うすづか)古墳・下山(しもやま)古墳、福岡県の石神山(いしがみやま)古墳・石人山(せきじんさん)古墳があげられる。臼塚、下山古墳は短甲形石製品、石神山、石人山古墳は武装石人を樹立する。これら初期の石人石馬を樹立する古墳は、いずれも前方後円墳であり、内部主体に石人石馬の石材と同じ阿蘇系熔結凝灰岩を使用した舟形石棺や古式の家形石棺を埋納しており、石棺と石人石馬の工人間に技術上の深い関係があったことが窺(うかが)われる。また樹立は、大分県、福岡県ともに短甲や甲胄を着装した円体武装石人の形態をとっていることや、前方部から後円部に向かう正面に一個または左右対称的に一対樹立しており、武具のもつ僻邪の呪力の効果やさらにその武具を着装した古墳の被葬者を護る番兵(ばんぺい)として武人を配する意図があったものであろう。
石人石馬が最も多く見つかっている熊本県は、やや遅れて五世紀後半以降に出現する。腰掛や小家、刀など形象埴輪と同様のあり方を示し、形象埴輪にその祖形が求められる。 石人石馬の最盛期は、筑後の筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳である。石製品の種類は、一二種類を数え最も多く、武装石人・裸形(らぎょう)石人・馬・猪・鶏・水鳥・翳(さしば)・蓋(きぬかさ)・盾・刀・坩(つぼ)などがある。いずれも実物大か、鳥や坩は実物大以上の大きさで、明らかに形象埴輪にみるものばかりで、これを石材に写したものと言える。
六世紀後半になると筑後・豊後地域に石人石馬は見られなくなり、肥後特に南部を中心に残るが、その種類も翳や蓋、靭など二~三種類に限られてくる。九州以外では鳥取県西伯郡の六世紀後半に比定される石馬谷古墳発見の石馬が唯一存在する。この石馬は当地方産の角閃安山岩(かくせんあんざんがん)を加工した円彫(まるぼり)技法の作品で、背に鞍など装具をつけた飾馬(かざりうま)である岩戸山古墳の石馬より少し小型であるが、表現は写実的で、かなり習熟した工人の手によるものである。山陰地方は、筑後・肥後で流行した横口式家形石棺の影響を受けて発達しか石棺式石室が盛行する地域であり、そうした交流が背景にあるものと思われる。
石人石馬の衰退は、六世紀前半に起こった筑紫君磐井の乱後におけるヤマト政権の強力な政治的規制によって衰退したものと思われる。