遺体を埋納するものに棺がある。古墳時代前期は、高野槇(こうやまき)を使った長大な割竹形木棺が西日本一帯で広まる。木棺はしばらくたつと朽ちてくるので、四世紀中頃~後半頃に香川県の鷲の山石(石英安山岩質凝灰岩)の割竹形石棺が畿内で多く使われ始める。その後四世紀後半代に割竹形石棺から舟形石棺に変化し、五世紀後半~末頃に家形石棺に変わる。九州、特に熊本県には、阿蘇山からの阿蘇系泥溶岩凝灰(でいようがんぎょうかい)岩の大量の流出がみられる。その溶岩を利用して菊池川流域、宇土半島基部、永川流域の三ヵ所で石棺作りが行われている。
舟形石棺は菊池川流域で作り始め、ここで作った石棺を岡山県の全長三七〇メートルの大前方後円墳である造山(つくりやま)古墳まで運んでいる。五世紀後半~末頃は、宇土半島基部の馬門(まかど)で作った家形石棺を滋賀県甲山古墳や丸山古墳、六世紀前半には継体天皇の墳墓だと言われている大阪府・今城塚(いましろづか)古墳に、七世紀初頭の推古天皇の最初の墳墓と言われる奈良県・植山(うえやま)古墳にも馬門石製の家形石棺を運んでいる。
五~七世紀における大王や有力豪族の棺に、わざわざ九州の石棺を選び、有明海沿岸から玄界灘、関門海峡を通り、瀬戸内海を抜けて大阪湾に入り、淀川を上って滋賀県や奈良県、大阪周辺まで七〇〇~八〇〇キロメートルの距離を船に積み込んで運んでいる。この時期には、兵庫県播磨の竜山石や大阪と奈良の間の生駒(いこま)山地にある二上(にじょう)山ピンク石などで作った長持形石棺や家形石棺が畿内周辺の有力豪族の墳墓に採用されているにもかかわらず、この馬門石の家形石棺をわざわざ海路で運ばせ、大王の棺に採用しているところに、大王家と肥君との深い関係を推しはかることができる。また遠路を運ぶことによる馬門石製棺の価値も上ったものと思われる。そして五~六世紀頃には、稀少価値のある石棺を運べるほどヤマト政権は玄界灘、瀬戸内海航路を掌握していたことがわかる。