大化改新以前で地方豪族の最大の反乱である筑紫国造磐井の反乱は、『日本書紀』継体天皇二一年(五二七)六月に特筆されている。新羅に侵略された南加羅・喙己呑(とくことむ)を回復して任那(みまな)に合わせる目的で、近江毛野臣(おうみけぬのおみ)が将軍として兵六万を率いて朝鮮半島に渡ろうとした。このことを知った新羅が磐井に渡海軍を防いでくれるよう頼んだ。これを受けて磐井は、筑紫国だけではなく、火国(ひのくに)(肥前・肥後)、豊国(とよのくに)(豊前・豊後)まで勢威を張って朝廷に従わせないようにし、海路もまたおさえて高句麗・新羅・百済・任那などの国々から毎年朝廷に納める貢物を運ぶ船を自領に引き入れ、任那に出兵しようとする近江毛野臣の軍隊をさえぎる挙に出たものである。ヤマト朝廷は、征討大将軍に物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)を選び、同年八月に九州へ出発した。両者の戦いは一年有余にわたり、翌二二年一一月筑紫(つくし)の御井(みい)郡(久留米市付近)で両軍の最後の決戦が行われた。そして麁鹿火は磐井を斬(き)って乱を平定した。一二月、筑紫君葛子(くずこ)は父の反逆罪に連座して罰せられることを恐れて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪をまぬがれることを請うた。
以上が『日本書紀』の伝える反乱の概要である。ところが『古事記』には、磐井討伐に物部荒甲(もののべのあらかひ)之大連と大伴金村連(おおとものかねむらむらじ)の二人が派遣されたとあり、『筑後国風土記』逸文(いつぶん)(『釈日本紀』所引)では、磐井は御井郡の戦いで斬られたのではなく、豊前国上膳県(かみつけのあがた)(福岡県築上郡、旧上毛郡のあたり)に逃れて、「南の山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終りき」と伝えている。