磐井の墓

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 筑紫国造磐井の墓について『筑後国風土記』逸文に、八世紀頃の磐井の墳の様子を伝えている。
 
 「上妻(かみつやめ)の県(あがた)、県の南二里に、筑紫君磐井(つくしのきみいはい)の墓墳(はか)あり。高さ七丈、周り六丈、墓田は南北各六十丈、石人、石盾各六十枚、交陳(こもごもつらな)りて行を成し、四面(よも)に周匝(めぐ)れり。東北の角に当りて、一つの別区(ことところ)あり。号(なづ)けて衙頭(がとう)といふ。〔衙頭は政所なり。〕その中に、一つの石人あり、縦容として地に立てり。号(なづ)けて解部(げぶ)といふ。前に一人あり。躶形にして地に伏す。号(なづ)けて偸人といふ。〔生けりしとき猪を偸み、よりて罪決められむとす。〕側に石猪四頭あり。号(なづ)けて賊物といふ。〔賊物は盗みし物なり。〕その処に、亦石馬三匹、石殿三間、石蔵二間あり。古老伝へけらく、雄大迹(をおほど)の天皇(継体天皇)の世に、筑紫君磐井、豪強(つよ)くして暴虐(あら)く、皇風(おもむけ)に擾(したが)はず、生平之時、預ねてこの墓を造りき。俄にして官軍(みいくさ)動発(おこ)りて襲(う)たむとする間(ほど)に、勢の勝つまじきを知りて、独自(ひとり)豊前の国の上膳(かみつけ)の県に遁れ、南の山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終りき。ここに官軍、追ひ尋ねて蹤(あと)を失ひ、士(いくさびと)の怒泄(や)まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しきといふ。」

(日本古典文学大系2『風土記』岩波書店、一九五八)


 
 江戸時代の学者たちは、石人を樹立する古墳があまり知られていないところから石人山古墳を磐井の墓にあてようとした。その後文化五年(一八〇八)の冬、岩戸山古墳の後円部にある伊勢社前から二体の扁平石人が発見され、矢野一貞が『筑後将士軍談』の中にこの石人の写生図を紹介し、岩戸山古墳が郡衙推定地の「県南二里」にあたることや墳丘の「高さ七丈」が実際にほぼあてはまること、東北方に石室をくずした跡が「別区」と推定されること(実際はさらに東側に別区があたる)、裸形座像石人を「裸形にして地に伏」した「偸人」ではないかなど、岩戸山古墳を磐井の墓であると、初めて指摘した。
 戦後、九州考古学会での調査によって「別区」が確認され、森貞次郎氏が、石人山古墳と岩戸山古墳の墳丘計測数値を検討し、岩戸山古墳が風土記に記された磐井の墓であることを証明した(森貞次郎「筑後風土記逸文に見える筑紫君磐井の墳墓」『考古学雑誌』五一-三、一九五六)。
 
図56 岩戸山古墳の平面図
図56 岩戸山古墳の平面図