六世紀初頭前後の豊前地域は、苅田町御所山古墳・番塚古墳と行橋市八雷古墳の三基の前方後円墳がある。
御所山古墳は五世紀後半に比定される全長一一八メートルの北部九州最大級の前方後円墳である。単室の横穴式石室に石障、突起をもつ。突起は刀掛け突起とも言われ、九州でも有明海沿岸部の古墳に多く、石障も肥後型石室に多く、これら石室の特徴は、豊前地域には珍しくどちらかと言えば筑後、肥後といった有明海沿岸部との関りが指摘される。行橋市の海岸部の稲童二一号墳など中小円墳に眉庇付胄や横矧板鋲留短甲をセットで所有する傾向は、有明海沿岸部、肥後における植木町マロ塚古墳や玉名市伝佐山(でんざやま)古墳にもみられ、朝鮮派遣氏族のつながりを想定できる。御所山古墳は、甲胄片も出土し、楯形の水をたたえる周濠を巡らしており、九州での空堀の多い中、ヤマト政権との密接なつながりを有し、ヤマト政権から任命された半島派兵の国造軍において将軍的役割を担った人物であろう。
八雷古墳は、六世紀初頭~前半に比定される全長八〇メートルの前方後円墳である。内部主体は明らかではないが、空堀の楯形周湟を巡らし、墳丘上から武人埴輪が出土している。頭部には鉢巻状の帯を巻くが、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)を頭部に貼り付ける粘土帯である。胸には格子の線刻を施文し、挂甲(けいこう)の小札(こざね)を表現する。本墳よりやや先行する苅田町番塚古墳からも挂甲が出土しており、武人的性格をもつ被葬者であったことが窺える。
豊前地域の有力首長層は、半島派兵を介して有明海沿岸部の筑後や肥後の有力首長層とのかかわりをもち、ヤマト政権と密接な関係をもっていた。