屯倉の設置

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 磐井の乱を勝利したヤマト政権は、九州への支配体制を一段と強力にしていった。『日本書紀』安閑(あんかん)天皇二年(五三五)五月の条に、「筑紫の穂波(ほなみ)屯倉・鎌(かま)屯倉、豊国の〓碕(みさき)屯倉、桑原(くわはら)屯倉・肝等(かと)屯倉・大抜(おおぬき)屯倉・我鹿(あか)屯倉、火国の春日部屯倉(中略)を置く。」とあり、ヤマト政権直轄領の設置記事がみられる。穂波は福岡県嘉穂郡穂波町(旧穂波郡)、鎌は同嘉穂郡稲築町鴨生あたり(旧嘉麻郡)、〓碕は同北九州市門司区(旧企救郡)、桑原は福岡県築上郡築城町(旧築城郡)に、肝等は同京都郡苅田町に、大抜は同北九州市小倉南区貫(ぬき)(旧企救郡)に、我鹿は福岡県田川郡赤村に、春日部は熊本県熊本市国府付近にそれぞれ比定されている。これを見ても明らかなように北部九州に七つの屯倉を一度に設置しているところは珍しく、明らかにヤマト政権の北部九州への直接支配体制を強化していることが窺える。これまで北部九州の有力首長層を介しての間接的な支配体制が、磐井の乱を起こした起因となっていることへの反省から、より強固な支配体制である直接支配体制に移したと考えられる。