糟屋屯倉

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 磐井の乱後、筑紫君葛子は父の反逆罪に連座させられることを恐れ、糟屋郡にある自領を献上して屯倉とすることで罪をまぬがれたが、この糟屋屯倉は、玄界灘を臨む港湾機能を備えた所で、ヤマト政権の朝鮮半島渡海ルート上、重要な拠点であったことから、ヤマト政権としては直轄領として是非おさえておきたい場所であったため、糟屋屯倉を献上することによって罪を許されたものと思われる。
 この糟屋屯倉は、最近の調査で古賀市鹿部(ししぶ)・田渕遺跡の可能性が高くなった。この遺跡は鹿部山丘陵(標高四六メートル)の西南端部(標高八メートル)に位置し、前面に低湿地が展開する。現在発見されている建物群は、予想される遺跡域の南側に位置し、方位軸を合わせて配置された四重柵列、側柱建物一棟、総柱建物一棟、溝二条、広場などが検出されている。時期は六世紀後半に造営され、七世紀後半までに廃絶している(小田富士雄「『糟屋屯倉』遺跡の発見とその意義」『新世紀の考古学』二〇〇三)。
 
図59 鹿部・田渕遺跡
図59 鹿部・田渕遺跡