ヤマト政権は、筑紫君葛子から朝鮮半島渡海上重要拠点である糟屋屯倉を献上してもらい、そのほか周防灘、響灘の北部九州沿岸地域に七ヵ所の屯倉を設置した。これらの政策は、朝鮮半島情勢の緊迫する中、筑紫君をはじめ九州の有力首長層たちに国造軍を組織させ、半島へ派兵するための軍需物資調達や前線基地にするためであった。
さらに宣化(せんか)天皇元年(五三六)五月詔(みことのり)に、半島情勢非常時のために那津(なのつ)のほとりに宮家(みやけ)を造営し、河内(かわち)・伊勢(いせ)・伊賀(いが)などの畿内周辺や筑紫・肥・豊三国の屯倉の穀をこの那津官家に集めさせ、対半島のための兵站(へいたん)基地とした。
この那津官家関係の遺跡として福岡市博多区比恵(ひえ)遺跡群が想定されている。これまで一六〇次余の調査で冊状遺構や四面庇建物や側柱建物群などが検出され、六世紀後半頃に造営され、少なくとも七世紀後半頃までに廃絶している。
このように北部九州沿岸部、とりわけ豊前に五ヵ所もの屯倉を設置(図58)したり、糟屋屯倉を手に入れ、なおかつ那津官家を修復造営していることなどは、六世紀前半頃の対朝鮮半島の緊迫した情勢に対応するものである。磐井の乱の平定とともに石人石馬は北部九州で樹立しなくなり、肥後南部を中心にわずかに残るが、かわって九州型古墳文化として石棚や石屋形装飾古墳が北部九州に展開するようになる。
こうした動きは、『日本書紀』欽明(きんめい)天皇一七年(五五六)正月の条に、「筑紫火君(つくしのひのきみ)(百済本記に云はく、筑紫君の児火中の君の弟といへり)」の記事があることから、熊本県八代郡に本拠地がある火君と筑紫君に婚姻関係が成立していたと考えられ、そうした背景のもとに有明海沿岸部の古墳文化である石屋形や石棚、装飾古墳が北部九州に広く分布するようになった。